瀕死の黒鳥

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「あなたは家族の死に目に立ち会ったほうがいいわ。そのほうが、あなたの踊りに奥行きが出るから」  このマネージャーは人の家族をなんだと思っているのだろう。私はそのひと言になにも言うことができず、ただ首からかけたタオルを握りしめていた。 「……お疲れ様です」  その言葉だけをどうにか振り絞り、その場を後にする。  握りしめた手の感覚が、気付けば消えていた。タオルを離した手は、気付けば真っ白になっていたのだ。 ****  バレエダンサーと言うと、華々しい活躍ばかりが表立って言われるが、そのほとんどは地味で目立たず、それでいて惜しみない努力の賜物と、なによりもカンパニーとの相性が物を言う。  なにぶん日本ではバレエの地位はそこまで高くはなく、「高尚な金持ち相手の道楽」みたいな、馬鹿にされているのか揶揄されているのかわからない扱いだ。  その中でカンパニーに所属してバレエダンサーとして踊り続けている私は、ついこの間新しくマネージャーになった人との折り合いが悪く、早い話干され気味になっていた。  あのマネージャーはバレエに対する知識があまりなく「バレエと言えば『白鳥の湖』だろう」「『白鳥の湖』と言えば有名バレエダンサーを連れてこれば元手が取れるだろう」みたいなこざかしい計算でカンパニー所属のダンサーたちの神経を逆撫でし、今やうちのカンパニー内はガタガタになっていた。  バレエと言えば日本では白いレオタードを着て白鳥の真似をして踊るイメージがついている。『白鳥の湖』が代表的なバレエとされていることも一員だろう。  主人公のオデットは悪魔に呪いをかけられ、普段は白鳥として過ごし、夜のみ人間に戻れるという生活を、共に呪いをかけられた乙女たちと送っていた。  彼女たちの呪いを解く唯一の方法は、真実の愛を得ることだけ。  そんな中狩りにやってきた王子がオデットを見初め、明日の夜の舞踏会に彼女をお披露目したいと申し出る。  喜んで受けたオデットだったけれど、悪魔は彼女を逃がしはしなかった。  悪魔はオデットそっくりな黒鳥の乙女オディールを送り込み、王子を騙して彼女に永遠の愛を誓わせてしまう。  かくして絶望したオデットは死んでしまい、それに後悔した王子も後追いをしてしまう。その真実の愛に悪魔は破れ、残りの乙女たちの呪いは解け、人間に戻るところで幕は閉じる。  この白鳥の乙女、黒鳥の乙女が、このバレエの二大主人公であり、この役を得るためにバレエダンサーたちは日々戦っていたのだけれど、マネージャーの意向でそれもできなくなってしまった。  ゲストとして召喚された有名バレエダンサーのおかげで、チケットは飛ぶように売れているものの、ここのカンパニーに所属していてもバレエを踊らせてもらえない。主役はゲストに譲るとしても、そのゲストを立てる役しか与えてもらえない。そもそも舞台に立てる人数にも限度があるため、ゲストを呼べばその分だけ残りの配役も削られてしまう。  腐ったバレエダンサーたちは、ひとり、またひとりと辞めていったために、ますますカンパニーはゲストに頼らざるを得なくなり、ますますカンパニー所属のダンサーの扱いが悪くなるという悪循環に陥っていた。  次の演目は世界でも有名なゲストのバレエダンサーの要望で『白鳥の湖』のバリエーションを踊ることになったものの。  とにかく白鳥の意思統一しようということで、マネージャーとバレエダンサーの摺り合わせでダンスの種類まで合わせられることになり、周りは困り果てていた。  そこで私にされた提案が来たのだ。 「あの人、本当になんなの」  シャワールームに来た私は、レオタードを脱いでシャワーを浴びながら、大声を上げた。 「あの人よりも私のほうが、白鳥に詳しいのに。あの人、『白鳥の湖』のオデットとオディールの区別すらついてないじゃない」 「さすがにそれはねえ……衣装だってキャラクターだって違うのに」 「あの人が来てから、うちのカンパニーガタガタなのに、これ以上どうしようっていうの? 挙げ句の果てに、『家族の死に目に合ってダンスの奥行きを増やせ』って偉そうに。あの人こそバレエのバリエーションと物語、マイムの種類を覚えるくらいしたらどうなの?」  バレエは解釈によって、同じあらすじの物語でも、悲劇にだって喜劇にだって、バッドエンドだってハッピーエンドだって変わる。  一見悲劇にしか終わらない『白鳥の湖』だって、解釈次第ではしっかりとハッピーエンドに終われるのだ。  だからバレエの基礎知識が必要不可欠になるのだけれど、あの人にはその知識すらあるようには思えなかった。  隣でシャワーを浴びている同僚の世羅は「本当にねえ……」とシャンプーを流しながら言う。 「悲しいって気持ちだと、踊れないっていうのはあの人わからないんでしょうね。悲しい、空しいって気持ちを持っていても踊るのがプロだって本当に思い込んでるんでしょうね」 「ねえ、無理じゃない」 「無理ではないとは思うけど、工夫しなかったら感情に引きずられるもの」 「……どうやっているの?」  世羅や先日、公演で本土を離れている間に、お父様が亡くなられたばかりだ。飛行機を使ってもその日のうちに本土に戻ることができないからと、公演を終えてから慌てて戻り、どうにか葬式に間に合わせたということは聞いた。  世羅は続ける。 「……悲しいままじゃ、動けないから。精一杯思い出を駆使して自分の体を動かしたの。あの人は生きていたんだ、たしかに生きていたんだって」 「そう……」 「あのマネージャーは人でなしだよ。言い方がもう少しあるのに。人が死ぬから表現の幅が広がるんじゃなくって、悲しみを会得するから表現できることが増えるのに。怒りも悲しみも飼い慣らさなかったら、ただの不幸自慢じゃない。ただの自己満足。まるまるそのまま不幸自慢したって、だからなに? としか思えないでしょ」  世羅は淡々と言うのに、私はしんみりとする。  私の中に虚しさが募っていない訳じゃない。でも。  それを覆すほどの怒りが、私の胸を占めていた。  ここまでこけにされて、馬鹿にされて、それでさらに悲しめという。  それで演技の幅が広がるならわかるけれど、あの人は聞きかじりの言葉を意味もわからず言っているだけだから、余計に腹が立つのだ。 「私、正直白鳥のバリエーションを踊れるような気がしない。技術的な面だったら踊れるけれど、少なくともあの人の求めている白鳥ではないと思う」  私は自分自身でも、踊りに白鳥を踊るための儚さが足りないという実感があった。  だからこそ『白鳥の湖』でも数少ない人間パートを取り合って、負けた場合は干され気味になっていた訳で。  今回のような白鳥オンリーのバリエーションじゃ不利なんだ。  私が吐き出すと「本当はさあ」と世羅は言った。 「私は有海のオディールが見たいよ。あれだけ華がありエネルギッシュなオディール、なかなかお目にかからないもの」 「ありがとう、でもあのマネージャーだと、私を使ってくれないでしょうね」 『白鳥の湖』のオディールはゲストダンサーが踊ってしまうから、私の出番はない。どれだけ踊れても、華がある上に顔も売れているダンサーには負けてしまうし、チケットだって私の力では完売には持ち込めない。 「でも、私は有海のオディールが見たいなあ……」  そう言われると悪い気がしない。  ……そこで、ふと思いついた。 「私、次の白鳥のバリエーション頑張るわ」  次の公演での演目について、少し思いついた。 ****  白鳥のバリエーションというのは、『白鳥の湖』の様々なシーンのダンスだけを見せるものだけでなく、他のバレエの中にもある白鳥に見立てたダンスを披露するというものだ。  私が踊ることになったのは『瀕死の白鳥』の名で知られる短編演目だ。  それは白鳥が死ぬまでの様をバレエで見せるというものだけれど、私の日頃のバレエではまず踊らないタイプのものだ。とにかく技巧が細かい上に、世を儚む切なさを全面に出す踊りなのだから、熱量を伴ったバレエを得意とする私には完全に不得手。どうしてゲストバレエダンサーがこの演目に私を選んだのかは、よくわからなかった。マネージャーだってきっとわかってはいない。  でも私は今日、『瀕死の白鳥』を踊る気はなかった。 「行ってちょうだい」 「はい」  いよいよ私の演目の番になり、私は舞台へと上がった。  その中で、私は音楽に合わせてバレエを披露しはじめた。途端に、周りがざわり……と同様した色が浮かびはじめた。  白鳥は水面下でばたつきながら優雅に湖を泳いでいる。『瀕死の白鳥』もまた、優美に死にゆく白鳥の様を踊るのだけれど。私はただ、その動きをひとつひとつ、蠱惑的な色になるように動いた。  指の一本一本に色香を込め、舞台を見守る人々を挑発した。  私の中には、私の怒りが溜まっている。沸々と。沸々と。その怒りを見ろ。見ろ。見ろ。見ろ……。  とてもじゃないが、優美に消えゆく儚い白鳥ではない。 「これ……本当に白鳥?」  これがもし、正しさを基準に行うバレエ大会の審査会場であったら、当然ながら失格だったが、これはチケットを買って見に行く舞台公演だ。残念だった。  私は体の隅々にまで怒りを滲ませ、死にゆく絶望を嘆き、どうして死なないといけないんだ、理不尽だ、死にたくない。死にたくない死にたくない死にたくない……それを表現した。繊細な優しい白鳥の動きではなく、この挑発的な動きは。 「これ、黒鳥じゃない」  誰かが舞台袖でそう言う。  そう。  私の奪われた黒鳥の演技だ。  返せ。私の黒鳥を返せ。私のカンパニーを返せ。売上は必要だ。チケット完売は必要だ。それでも。  私たちはカンパニーを輝かせるための団員だけれど、カンパニーのための舞台装置じゃない。ゲストダンサーのための踏み台じゃない。  最後に脚をまっすぐと伸ばし、体を折り曲げる。  黒鳥は死んだのだ。 ****  私はマネージャーに会わないように苦労しながら辞表を出したあと、スマホに通知があることに気付いた。  前にお世話になった別のカンパニーのマネージャーさんだった。 「もしもし」 『あなたすごい演技したわね……最近カンパニー内の空気が悪いとは聞いていたけど』 「さすがに嫌がらせだったなとは思いましたけどね。一緒に踊ってた子たち、この間の公演で軒並み辞めてしまいましたし」  さすがに付き合っていけないと、私の辞表の他にもいくつもの辞表が並んでいた。世羅も「この間次のカンパニーの面接受けてきた」と言っていたから、近いうちに辞めるだろう。 『あなた、今は?』 「フリーですね。カンパニーを退所してきましたから」 『ならうちに来てちょうだい。あの黒鳥のダンス、うちで是非とも披露して』 「それ……バリエーションですか?」 『いいえ。「白鳥に湖」のオディールよ』  それに私は、小さく手を握りしめた。  あの日悔しさと怒りで真っ白になるまで握りしめた手は、今日は歓喜で白くなるまで握られている。
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