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確かに、この話を持って行ったのが五月の連休明けで、その後、話はトントンと進み、六月末には契約が出来るねと金城と話をするまでになっていた。だが、六月の中旬過ぎになって急に話がひっくり返った。掌返しと言っても良いほどの変わりようだった。金城の鼻息がこうして荒くなるのも判るが、何か理由があっての事だろうと思う。
「だからこりゃあ、もう、金ではないと思いましたね。鹿之倉さん、このままじゃあ話は進みません。一度、岡山に行かれたらどうですか?」
「岡山、ですか」
「そうです。これ以上、電話で遣り取りしていても埒が明かないですよ。金じゃあないと云うんだったら、もうこっちには売らない理由はさっぱりわかりません。もう会うしかないですよ。間に入っている私が匙を投げるようなことを言うのも何ですが、契約の更新日まであと三月ですからね。ここは大変でしょうが、一度、向こうに直接行かれた方が良いと思います。本当に売る気が無いのかだけでも確かめた方が良いと思います」
確かに、今回の更新を逃せばまた二年先に話が伸びるだけだろう。本当に売る気が無いのならスッキリ諦めれば良い。金城はそう言いたいのだ。
契約書を閉じて金城に渡す。内容は先日、金城から電話で聞いたものと同じだった。
「契約書は送っておきます。諦めるにしても、一度会うだけ会った方が良いと思います」
「分かりました。岡山行きは考えてみます」
「で、話は変わりますが、鹿ノ倉さんは森 泰造氏の絵は見たことがありますか?」
金城が一仕事終わったと言うように話題を変えた。
「以前、神奈川で見た事があるよ」
五年程前、箱根の美術館でたまたま森泰造の作品を見た事がある。ちょうど老舗の温泉旅館への取材の帰りに、新興宗教団体が作った美術館の前を通ると現代絵画の企画展が催されていた。時間潰しにと立ち寄ったが、中に入るまで森泰造の絵が有るとは知らなかった。展示物は具象画と抽象画とに別れていて抽象画のコーナーに彼の絵が三点有った。いずれも大作で、原色の幾何学的模様の中に豊満な裸婦が溶け込んだ作品だった。生命力に満ち溢れた、優しく、そして迫力のある絵画だと恵一は思った。
「お恥ずかしい話ですが、私はこの間、初めて見ました。もちろん、インターネットで見たんですがね。しかし、私には芸術的センスはありませんね。あんな歪んだ丸や四角で描かれた物を女の身体だと思えと言われてもダメですよ。抽象画は理解不可能です。どこが良いのかさっぱりわかりませんでした」
「結構、今でも蒐集家がいるようだよ」
「その様ですね。しかし驚きました。有名人だったんですねぇ、森泰造は」
「玉利島には何年、住んでいたんだろう?」
「たしか、六年程ですかね」
「という事は、・・・十六年前に建てたってことかな」
「そうですね。今年の冬で築十六年になります」
「・・・」
「・・・どうかしたんですか?」
「いや、オレは彼よりも長く住んでいるんだなぁと思ってね」
「これからもずっと住んでくださいよ。私も話し相手がいて楽しいですから」
恵一は、ゆっくり席を立った。
そら豆みたいな顔の娘に麦茶のお礼を言って店を出ると、外は一段と熱くなっていた。風は止み、向いの生垣のハイビスカスもピクリともしない。また、耳鳴りがしてきた。
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