第三章

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第三章

 教室に響く教師の声。カンと音を立てながら増えていく黒板の文字。それらを写すために顔を俯けている生徒と、教師の目を見て必死に内容を理解しようとしている生徒。 騒ぐ者もおらずシンとした空気に包まれたその中で一人、ただ流れていくだけの時間に退屈し、子供のように足をぶらぶらと揺らしている存在。 「……暇です……」 ミコトだった。 いつの間にか猫から子供の姿に変わっている。 「なんでこんなにつまらないんですか……昔来た時の方がまだ面白かった気がします!」 何度目かのその呟きに振り返る生徒はいない。唯一聞こえているはずの翔すらももう反応しなくなっていた。 そのこともミコトの退屈度を増進させた。 ここに来てすぐに一度、主人である翔にでも話し掛けようとロッカーから下りたのだが、近寄った途端思い切り迷惑そうな視線を寄越されたため大人しく戻り今に至る。 ロッカーの上に寝そべり、ミコトはふわとあくびをした。 「あーあー!」 退屈だった。 「何がわかってますだよ!うるさい!」 「うわあっ?」 怒気を含んだ声にビクッと体を跳ねさせてミコトは飛び起きる。 いつの間にか寝てしまっていたらしいことを理解するのと同時に、目の前で睨んでくる翔にヘラッと笑いかけた。 「いやー退屈でした。もう終わったんです?」 教室内に残っているのはミコトと翔だけだった。あんなにいた生徒たちの姿は見えない。 終わったのかというミコトの質問に対して、翔はニコリともせずにまだ、と一言答えた。 「それより、静かにしててって僕言ったよね。わかってますって君は言ったよね。うるさいし迷惑でしかなかったんだけど?」 だってミコトも予想外だったんですもん、とミコトは口にする。 予想外のつまらなさと静かさ。 人間は大変だなあ。 「……はあ」 呆れたのか、まったくとため息をついた翔は、おもむろにドアの方へと歩き出した。 「あれ、どこに行くんです?」 「外」 「外?」 「次体育なの。外でやるんだよ」 そう言うなりさっさと出ていってしまう。 ミコトはふーんと呟きロッカーから下りると、窓の側へと近付いた。 何人かがすでにグラウンドに出て準備運動などをしている。 しばらくするとチャイムが鳴り授業が始まった。ボールを蹴ったり走ったりと動き回るその集団の中に翔の姿を見つけ、おっとミコトは身を乗り出した。 翔は器用に相手をかわし広いコートを駆け回っている。 心なしかその表情は生き生きとしているようにミコトには見えた。 「何だか楽しそうですねー」 あんな表情もできたのかとミコトは感心した。今まで呆れたり怒ったりしているのは見たが、笑っているところは見たことがない。 だからミコトは翔は笑わないのだと思っていた。 出会って一日も経っていないというのに可笑しな話だが。 「まあ最初からでしたけど」 ミコトが翔を見つけたのは偶々だった。 主人を見つけてこいと師に放り出され。 どうしたものかと周りを見回した時に偶々近くにいたのが翔だった。 もちろん、近くにいたのは翔だけではない。 犬の散歩途中の老人や仕事帰りらしきスーツ姿の男性、買い物袋を片手に下げた親子など。主人の候補はいくらでもいた。 それでもミコトが翔を選んだのは、彼の瞳を見たからだった。 ここではないどこかを見つめているような、静かで深い海のような瞳。 何かを秘めた、いや、抑え込んでいるようなそんな瞳。 特大の願いを持つ者の瞳だった。 ミコトが決断するまでに時間はかからなかった。 『ちょっとそこの方、願い事はありませんか?』 そう声を掛けて。 彼は警戒した様子で振り返る。 思い返せばミコトも、この時から小さな違和感は感じていた気がする。けれど見て見ぬふりをして、逃げた翔を追いかけて話をして。 さあ願いをと改めた時。 『ない』 彼はしっかりとそう言った。 想定外だった。 早く帰りたいと言われ柄にもなくミコトは焦った。 ここで彼を逃がしてしまえば、願いも取り逃してしまうことになる。 昨夜翔にも少し溢した通り、ミコトの種族にとって願いは人間でいうところの食物のようなもの。 深い願いほど滅多にお目にかかれないレアもので、逃してしまうには惜しすぎるのだ。 加えてすでに主人であると自分の中で契約をしてしまっていた。 今さら後戻りはできない。 そうしてミコトが何とか引っ張り出してきたのが、願いを見つけてもらうことだった。 「焦った割には良い思い付きでしたけどね。さすがミコトなのです」 その時のことを思い出しミコトは一人自慢気に頷く。 短時間でも確信できたこと。 翔は間違いなく何かを隠している。 それは簡単にわかった。 時々苦しそうに、それでもって悲しそうに息をつく翔。 きっと本人も無意識なのだろうが、言われた通り大人しくしていたミコトには全て見えていた。 まず誰かと共にいる時は絶対に見せない。 ミコトと話している時はもちろん、颯太とかいう弟といる時でさえそう。 絶対に近くに誰もいないというタイミングでいつも、その癖は出ていた。 今朝も颯太が起きてくる前やミコトが話し掛ける前に出ていて。 その度にミコトは期待をする。 「……翔はいったいどんなことを願うのでしょうね……」 楽しみで仕方がない。 想像するだけでわくわくする。 願いなんてないと言っていた翔が何を願うのか。 彼が抱えているものは何なのか。 窓の外の翔へと視線を向けたまま、ミコトはフフッと笑みを溢した。 ◆◆◆  「ではミコトは帰りますねー」 五限と六限の間の休み時間。人通りの少ない廊下にて。 うーんと伸びをしたミコトに翔が小さく頷いた。 「颯太のことよろしく」 「はいはーい、ミコトにお任せください」 颯太が帰ってくる時に家にいて欲しい、という翔のリクエストによりミコトは人足先に帰ることに。 結局午前だけでなく、午後に入っても退屈し続けていたミコトにとっては願ったり叶ったりな頼みだ。 ちなみに、この頼みは願いを見つけてもらうための交換条件なため願いには入らない。 「でもなんで弟くんが帰る時にいてほしいんですか?」 「あーその……朝話したけどさ、うちは片親になっちゃったから、その事で前学校で色々あったみたいなんだよ。今は収まってるっぽいけど、気を遣ってか僕には全然そういうこと言わなくて……」 あいつ優しいからと翔は付け加える。 つまり、また何かあっても気が付けない可能性が高いから、颯太が一人でいる時の様子を知りたいということ。 回りくどいやり方をするなぁとミコトは呆れた。 「直接聞いちゃえば良いじゃないですか」 「まあそうなんだけど……」 曖昧に誤魔化されこれは駄目だなとミコトは悟る。 「とりあえず様子を見ていれば良いんですよね」 「うん助かる」 「それではー」 ミコトは一瞬にして鳥に姿を変えるとそのまま廊下の窓から空へと飛び立った。 一度だけ振り返った先では、校舎内に響き渡るチャイムに慌てて教室へと戻る翔の小さな背中。 ミコトはぐい、とスピードを上げた。 「やっぱり歩くよりも飛んだ方が早いですね」 朝のようにちまちまと歩くなんてミコトには考えられなかった。 早い方が良いに決まっているのに。 節約だとか何だとか、翔は変なところを気にする。 行きの半分、いや三分の一程の時間で蓮見家へと到着したミコトは、難なくドアをすり抜けて家に上がった。 降り立つ瞬間に子供の姿へと変化し、大きく伸びをする。 「無事とうちゃーく」 さあ弟くんが帰ってくるまで何をしていましょう、とミコトは室内を見回した。 パッと見面白そうなものは見当たらない。 こうして改めて見てみるとこの家には無駄な物が全くと言っていいほどなかった。 「もう、ミコトはここでもまた暇なんですかー」 もう当分退屈はいらないですよ、とミコトは文句を言う。 時計を見上げてみれば、教えてもらった颯太の帰宅時間までは少し余裕がある位置を針が指していた。 特にすることも思い付かなかったミコトは、翔と颯太が寝室として使っている部屋に行き、畳まれていた翔の布団にポスンと仰向けに倒れ込んだ。 「おぉー」 これはなかなか。 ぐっすり眠れそうです、とミコトは目を閉じようとして。 「んん?」 直前に見えたものが気になり再び目を開いた。 ぴょんと跳ね起きて正面の棚に近づく。 そこに飾ってある四角い何か。 「これは……」 何でしたっけ、とミコトは思考を巡らせる。 人間側の世界に来たのは久しぶりなため、随分とミコトの記憶は薄れてしまっていた。 「ああ、そうですそうです。写真ですね!」 今日着ていたものとは異なる制服を身に纏った翔が、ロングヘアの女性に頭を撫でられている。颯太と見られる少年が笑顔でピースをしていて、その三人をまとめて抱え込むようにして笑っている男性の姿。 皆が皆笑顔を浮かべていて、辺りを桜で包まれたその写真からは幸せの気が溢れ出ていた。 「ふーん……」 しかし、ミコトの瞳には何の感情も浮かんではいなかった。 興味を失ったように写真から視線を外したミコト。ふわあとあくびをしたところでピタリと動きを止める。 カン、カン、と外から音がしていた。 階段を上ってくる音。 ミコトが目を細めるのと玄関が開くのが同時だった。 「ただいまー」 誰もいない……少なくとも颯太にはそう見えているであろう家に向かって律儀に声を掛けた彼は、慣れた様子で鍵を閉めると靴を脱いで上がってくる。 背負っていた黒色のランドセルを居間に置き洗面所へ。 水道の音が止むとすぐにまた戻ってきた。 その間ずっと無言。静かだ。 特に変な様子は見られない。 次は何をするのかとミコトが見守っていると、颯太はランドセルからプリントと筆箱を取り出した。 宿題でも始めるのかという空気が流れた時。 「……」 突然、颯太が寝室の方を見つめたまま固まった。 「ん?」 ミコトは首をかしげる。 視線の先を追おうと後ろを振り向きかけて。 「……ミ、コト?」 彼は知らないはずの名前が、ややぎこちなくだけれど彼の口から発せられた。 ええっと大きくミコトは瞳を見開く。 完全に予想外。 「ミコト……だっけ。いるの……?」 一体これはどういうことなのだろう。名前だけでなく存在すらも知られているこの状況。 颯太は寝室から目を離すこともなくじっとミコトの返答を待っている……のだろう。 出るべきか否か。 悩んだ末にミコトが選んだのは。 「いますよ」 姿を現すことだった。 颯太に姿が見えるように、声が聞こえるように。翔だけにしか見えないようかけていた力を消す。 「お呼びですか?」 「わっ、びっくりした……」 突然現れたミコトに颯太はわかりやすく肩を揺らした。ミコトはクスッと笑う。 「そこまで驚かなくても。呼んだのはそちらからですよ?」 「あ、いや、そうだけど……」 本当に出てきて貰えるとは思わなかったから、と小さく溢す颯太。 ダメ元で呼んだらしい。 「そんなことより、どうしてミコトの名前を知っているんですか?」 「……昨日」 昨日?と聞き返す。 颯太は少し気まずそうに目を逸らした。 「夜、話してたから……途中からだけど聞いてた」 「寝ていなかったんですか」 こくりと颯太が頷く。 全部聞いていたとは…… 颯太が起きるから静かにと気にしていた翔を思うと面白かった。 しかも、颯太の帰宅を見守って欲しいという頼みも本人に筒抜けだったのだ。 これは後で盛大に笑ってやりましょう、とミコトは胸中で呟いた。 「あのさ、ミコトは本当に精霊なの?」 「そうですよー。ミコトは願いの精霊です」 「……じゃあ……」 颯太は一度言葉を切り顔を俯けた。 顔にかかるさらさらとした前髪のせいで、ミコトからは彼の表情を見ることはできない。 すぐに顔を上げた颯太の瞳。 そこには真っ直ぐで力強い光が宿っていた。 「じゃあさ、俺の願いを叶えてよ」 一瞬、世界が止まる。 「……はい?」 ミコトはパチパチと瞬きした。 「だから、翔兄じゃなくて俺の願いを叶えてよ」 「貴方には願いがあるんですか」 「ある」 間髪入れずに大きく頷く彼の、ミコトを見つめる瞳は真剣そのものだった。 「……なるほど」 言いたいことは理解した、という意味を込めて吐き出された言葉に、颯太が期待の目を向ける。 そんな颯太とは対照的に。 「すみませんが」 ミコトは冷めた目で彼を見返した。 「ミコトの今の主人は翔ですので。それは受け付けられません」 「えっ……で、でも、翔兄に願いはないんだろ、それなら……!」 「仮に貴方が直接翔に頼み込み、翔が了承したとしてもこれは変わりません。あくまで、ミコトが叶えるのは翔から発せられた願いのみですから」 ミコトは淡々と告げる。 じわりじわりと心に広がっていく失望感。 やはり人間とはこういうものなのだ。 自分中心で平気で他人を売る。 どんなに親しい友人でも、家族でも。 平気で切り捨てる。 散々見てきた、ミコトが嫌いな人間の一面。 もうそういうのはたくさんです、とミコトは立ち上がった。 「あ、待っ……」 「……まだ何か?」 振り返ったミコトの瞳を見て、颯太は目を伏せた。 グッと口を引き結ぶ。 「い、や……無理言って、ごめん」 揺れる声でそれだけを溢した。 ゆっくりとした動きで机の前へと腰を落とし、今度こそプリントを広げる。 それ以降、ミコトも颯太も何か言葉を交わすことはしなかった。 二人が口を閉じたことにより家の中は静寂に包まれる。 時計がチクタクと存在を主張する。 そんな重苦しい空気を破ったのは、玄関の外から響いた物音だった。 ガチャっと鍵が開くのを見て颯太が再び勢いよく立ち上がる。 「ただいまーって、うわっ」 「翔兄、おかえりー!」 暗かった表情をパッと一瞬で消し去り、昨日と同じ満面の笑みを浮かべた颯太が翔に飛び付くのを、ミコトは何の感情も浮かんでいない瞳で見つめていた。
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