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第四章
現在時刻午後九時頃。僕は思わず。
「……願いってなんだ」
誰もいない浴室の中でそう溢した。
ミコトと出会ってから早一週間。
前より少し、いやかなり騒がしくなった他は何の変化もない日々。
当然ミコトも同じ日々を送っている訳で。
勝手にこっちの生活に飛び込んできたとはいえ、何だか申し訳ないなと願いについて真面目に考え始めてみたのが三日程前。
そう三日前だ。
完全に行き詰まった。
考えても考えても何も思い付かず、願いとはなんだ、という原点まで戻ってしまった今に至る。
「そもそも願いって、何かになれますようにとかそういうのだったよな……」
なりたいものとか僕無いし。
学校で書かされる七夕の短冊も、クラスに必ず一人はいる、願いが見つけられますようにって書く組だったからなあ。
なんて懐かしいことを考えながら腕を伸ばしシャワーを止める。手早く着替えを済ませ、肩にタオルをかけたまま洗面所を出た。
「そこ違いますよ」
「えっ、待ってどこ、ってまたあ?」
視界に入るのは、げっと顔をしかめる颯太と、学ばないですねーと退屈そうにあくびをしているミコトの姿。
ミコトの頭が良いことが判明してからはよく見るようになった光景だ。
『ごめんね、翔兄。実はさ……』
二日目の、ミコトに頼んで先に帰ってもらった日。帰宅した僕は、初日のミコトとの会話を聞いていたのだと颯太にカミングアウトされた。
少し恥ずかしかったが、聞かれても困らない内容だったしそこまで気にすることではないと言ったのだけれど。罪悪感でもあるのかその時の颯太の表情は少し暗かった。
ミコトが家にいることに確信を得られたのは、朝綺麗に畳まれていたはずの僕の布団が乱れていたから、らしい。
「あ、翔兄戻ってきた。ねえ俺ここわからない」
「隣に先生がいるじゃん」
プリントを指座す颯太に視線でミコトを示す。颯太は微妙そうな顔をした。
「ええー……」
「何ですかその不満そうな顔は」
「だって、年下に教わってるみたいになるじゃん」
願い事……ミコトに相談した方が良いのだろうか。
「成長しましょうか?」
「えっ、そんなことできるの?」
今までどんな願いがあったのかとか、聞ければ参考になるかもしれない。でもそれも何か違う気がする……
「すっご、翔兄見て……翔兄?」
「え、ああ、どうした?」
ハッと意識を現実に戻す。
颯太が心配そうに顔を覗き込んでいた。
「体調悪い?」
「いや、元気だよ。少し考え事してただけだから」
ほら、と安心させるように笑って見せるけれどまだ納得していない様子。これ以上突っ込まれても本当に何も言うことがないため、僕は会話を終わらせ台所へと移動した。
コップに水をそそぎ煽る。
その冷たさが風呂上がりで火照った体には心地好い。
シンクに背を預けつつ部屋を何気なく眺めていた時。
ガチャッと玄関の鍵が下がって。
「ただいま。翔、颯太」
僕は片手にコップを持ちもう片方をシンクに添えた体勢のまま固まった。
外の空気を纏い入ってきたのはスーツ姿の男性。
「父さん!」
颯太が先に動き出した。
手にしていた鉛筆を机上に放り投げ、靴を脱いでいる父さんの背中目指して駆け寄る。
「おかえり、久しぶりだあ!」
「はは、夜なのに颯太は相変わらず元気だな」
父さんはくしゃっと颯太の髪を撫でて。
ゆっくりと近付いてきた僕の方へと視線を上げた。
「翔……」
「おかえり。父さん」
僕の言葉に父さんは安心したように頬を緩ませる。ただいま、ともう一度口にして、颯太にしたのと同じように僕の頭を撫でてくれた。
久しぶりの感覚にじわりと胸が熱くなる。
それを誤魔化すように僕はふいと顔を背けた。
「今日は早かったんだね。夕飯は?」
「相手先の方でトラブルが起きて、珍しく先に帰されたんだよ。余ってるなら貰おうかな」
「わかった」
台所へ戻り料理を温める。
颯太は宿題に戻ったようだ。
その間に父さんは着替えてきたようで、隣から僕の手元を覗き込んでいた。
「随分手慣れたな……」
毎日やってるからねと僕は軽く返す。
「翔」
「なに?」
手元に落としていた視線を上げれば、父さんは苦しそうな表情をしていた。
「いつも色々と任せてばかりでごめんな。翔も学校で忙しいだろうに、家事だけじゃなくて颯太の面倒までみてもらって。部活も……」
「いいよそんなこと」
父さんが悪い訳じゃない。誰も悪くない。
僕は平気だから。
「家事とかも結構慣れてきたし。部活だって止めることを選んだのは僕の意思だから」
「だが……」
「だってさ」
コンロの火を止め、父さんと向き合う。
「父さんはいつも僕らのために働いてくれてるじゃん」
毎日毎日、遅くまで。
それこそ休みなんてないくらいに。
少しでも僕らを楽にさせてあげようと頑張ってくれてるのを知っている。
「それなのに何もしないなんてできないから」
目の前の揺れる瞳を強く見返して、僕は口にした。
「僕は、平気だよ」
父さんは黙っていた。
しばらくして。
「……ありがとうな、翔」
強張らせていた体から力を抜いて、そう優しく笑った。
久しぶりに見た父さんの笑顔に僕は安堵した。
ところで、と父さんは話を切り替える。
「翔、お前髪乾かしてないのか」
「え?」
「濡れてるぞ」
問われそういえばと思い出す。
肩にかけるだけかけて拭かずに出てきてしまった気がする。
「あー忘れてた」
「翔が珍しいな」
「そう?」
まあ面倒臭いしこのままでいいや、と笑おうとした時、父さんに貸してとタオルを奪われた。
「え、ちょ、わっ」
「風邪引くぞ」
ワシャワシャと髪を拭かれる。
突然なことに僕は困惑してその手を押さえようとして……
昔もこうだったなと浮かんできた懐かしさに思い止まった。
「宿題終わ……あはは、翔兄、子供みたいだー!」
颯太の声が聞こえたが、何も返答することなく目を閉じる。
こうしてもらうのは本当にいつぶりだろうか。
「ほら乾いた。ちゃんと忘れないようにな」
「ありがと」
長いようであっという間な時間が終わり、手を離されてもそんなことを考えていた。
よそった夕食を机に置き食べ始めた父さんと、その隣に座り何やら話しかけている颯太の姿を眺める。
「混ざらなくていいんですかー?」
いつの間にか隣に来ていた猫が肩に乗ってきた。気を遣って姿を見えないようにしているのだろう。父さんも颯太も猫の存在には気が付いていない。
「いいんだよ」
こうして眺めているのは好きだった。
寝る時は一緒の家にいても、父さんに会える機会はなかなかに少ない。帰ってくる時は僕たちは寝ていて、僕たちが朝起きた時はもう出ている。そんなすれ違いが多いから。
こうして家族な二人を見るのは嬉しかった。
「……家族……そんなに良いものですかねえー」
「今何か言った?」
「いいえー」
ミコトはいつものように、ふわあとあくびをする。願いについて聞いてみようかと一瞬思ったが、今は違うかなとやめておいた。
もう一度視線を父さんたちに移す。
ゆったりとしていて温かくて、けれどどこか冷たく静かな。
そんな時間が流れていた。
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