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第五章
「ただいまー!」
翔の布団の上に座り微睡んでいたミコトは、騒がしい音を立てて帰宅してきた颯太にチラッと視線を寄越した。
「えーミコトまた寝てたの?」
「暇なんですよ」
すぐに視線を外しふわあとあくびをするミコト。それを見て颯太が呆れたように笑った。
「猫かお年寄りみたいだ」
「猫ではないですけどミコトは年寄りですよ」
「その見た目じゃ説得力ないよ」
今のミコトはいつもの子供姿。とてもじゃないが長生きしているようには見えない。
お互い目を合わせていないのに、成長しましょうか、いやいいよ、なんてテンポよく進む会話。端から見れば仲睦まじく見えるのかもしれないが、二人の間にはあの日、初めて二人が会話した日以来、本人達にしかわからない壁ができてしまっていた。
同じ空間にいる気まずさから紡がれる会話。
時計の針がのんびりと進んでいく。颯太の手元で動く鉛筆の音が室内にこだまする。
ミコトは何度目かのあくびをすると、本格的に寝てしまおうかと翔の枕を引っ張り出した。
「……ねえミコト」
不意に話しかけられ、はいと振り返る。
「やっぱり……俺の願い、叶えてくれないかな」
「は……」
改まって何かと思えば。
睡眠を邪魔されたのもあり、またその話ですかとミコトはため息をついた。
「それに関しては前に答えたはずですよー?」
「そうだけどさ……」
モゴモゴと諦めきれない様子で口を動かす颯太。ミコトは訝しげに眉をひそめた。
一週間という短い期間でも、ある程度の性格や思考は読み取れるようになる。颯太に関してもそうだ。自己中心的な考えを持つ人物ではないことは容易にわかったし、なにか一つのことに対する執着心も強そうには見えない。
ミコトには、颯太がそこまで必死になる理由がわからなかった。
「どうやったら主人は変わる?」
「それはもちろん、願いを叶えたらですよ」
「じゃあ翔兄の次に俺を選んでよ!」
名案だとばかりに身を乗り出し瞳を輝かせる颯太にミコトは再度ため息をつく。
「無理ですよ」
「何で!」
「連続で同じ家庭の人間を主人にすれば不平等になるでしょう。それに、願いを叶え終わったらミコトについての記憶は全て消す決まりですから」
ミコト達にだって細かいルールは山ほどある。主人を選ぶと言ってもあくまで、それに当てはまる者の中から、という意味での自由なのだ。
「そ、そこをどうにかさ」
「無理です」
「ミコトぉ……」
「何ですか」
「お願いだよ。ね、俺の願い……」
「いい加減にしてくれます?」
颯太の言葉を遮り、ミコトはスッと立ち上がった。
軽蔑と少しの哀れみを含んだ瞳で彼を見下ろす。
「しつこいですよ」
無理なものは無理。
「何度もそう言っているではないですか」
静かにミコトは苛立ちを言葉に乗せた。
それは見えない圧となり颯太に向かう。
「そこまでして叶えたい貴方の願いが何なのかは知りませんが。どちらにしろ、自分勝手なことをただ並べているだけの今の貴方に、ミコトの主人となる資格はありません」
ミコトは鋭く目を細めた。
「二度と口にしないでください」
「っ……」
颯太はミコトの視線に怯んだようにヒュッと息を呑んだ。
子供が受けるにはキツすぎる視線。
しかし、颯太は負けじと勢いよく立ち上がった。子供の姿になっているミコトと小学生の颯太では、自然とミコトが見下ろされる形になり立場が逆転する。
「……翔兄、は……」
恐怖からか僅かに震える声で。
「翔兄は、自分のことを願わない」
はっきりと、だがどこか悲しそうに颯太は言った。
「優しいから。いつもそうなんだ。俺とか父さんとか、家のことを優先して自分は後回し。あんなに大好きだったサッカーだってやめて、家事とか色々してくれて。俺達のために自分を犠牲にしてる。今回だってきっとそう」
一生懸命に言葉を紡ぐ。
「確かに、これは俺が勝手に言ってることだ。翔兄が本当はどう思ってるのかも俺は知らない。教えて、貰えないから。俺は知らない。でも時々辛そうにしてるのは知ってる。無理してるのを知ってる。俺はそれが嫌だ。翔兄には笑っていてほしい」
大好きだから。大好きな、大切な兄だから。
「……翔兄は一人で何でも背負おうとする。でも俺にはまだ、翔兄を支えられる程の力はないから。だから……」
颯太は伏せていた瞳を上げた。
……今まで見てきた人間とはまた違う瞳だ、とミコトは思った。
欲にまみれた瞳ではなく純粋な光を宿す瞳。
その瞳をミコトに向けて颯太は訴えかけていた。
「俺の願いを叶えて……翔兄を、楽にしてあげてよ」
「……」
「お願い、ミコト」
自分より下になった頭をミコトは静かに見つめた。ミコトのよく知る人間とは違う人間を。
颯太の言いたいことはわかった。ミコトが思う颯太の人物像にも一致している。何故あんなにも必死になっていたのか、願いに拘っていたのか。全てが繋がっていった。
けれど、答えは変わらない。
「……残念ですが。例えどんな理由があろうとも、答えは変わりません。ミコトにどうこうできる問題でもありませんので」
ミコトが叶えられるのは主人が口にした願いだけ。
「っ……」
変わらない。
颯太は俯いた。
悔しそうに唇を噛み締め拳を握る。
ミコトは不思議だった。
颯太の願いは翔のためだった。それならば、翔を助けたいがためにミコトの冷たい態度にも耐え、そして今悔しがっているということになる。全て翔のために?
理解できない。
「……ミコトに言うよりも翔に言ったらどうです。そっちの方が早いと思いますけど?」
「……」
無言で首を振る颯太にため息をついた。
なんでです?と問いかける。
「……」
「弟さん?」
返事をしない彼の顔を覗き込もうとしたところで。
「ただいま、って二人とも何してるの?」
帰宅した翔が、部屋の中央で立ち尽くすミコトと颯太を見て目を丸くした。
「……これどういう状況……?」
その言葉を聞いた途端、バッとミコトの隣で颯太が顔を上げた。
翔に駆け寄りその腕を掴む。
「別に、なんでもないよー。翔兄おかえり!」
「え」
ぐいぐいと引っ張って子供のように笑って見せる颯太。いいの?と翔が戸惑ったようにミコトと颯太へ交互に視線を送っている。
「本当に何もないから。いいって……」
「弟さんが自分の願いを叶えてほしいとミコトに言ってきたんですよ」
「……え?」
「ちょっ、ミコト!」
「だって事実ですもん」
颯太が睨んできたがミコトは全く動じずにあくびをした。疑問が解決しないのは気持ちが悪いが、もうこの話題に興味はなくなっていた。
「それって……颯太、何か願い事あったの?」
「い、や、そういう訳じゃ……」
あからさまに目を泳がせる颯太。
嘘をついていることは丸わかりだろう。
「言ってくれればよかったのに」
翔は少し屈んで颯太の顔を覗き込んだ。
「それを僕がミコトに願えば叶うんでしょ?」
「他人の願いは願いになりませんよー」
「でも僕が心から颯太にそれをって願えば、僕の願いになるでしょ?」
まあ確かにそうですけど、とミコトは応える。正直、叶える側からするとそれはつまらないからやめてほしいところだ。
「ほら言ってごらん。颯太の願いは何?」
「……」
「颯太?」
「……」
「はあ、黙ってたらわからないよ」
ピクリと颯太が反応する。
顔色が変わったことに翔は気がついていない。
「ちゃんと口にしないと……」
「……翔兄だって」
グッと拳を握った颯太は翔を見上げた。
「っ……翔兄だって、何も言わないじゃん!」
突然の大声。
翔が大きく目を見開く。
颯太はいっそう瞳を強く揺らした。
「嫌なこと全部溜め込んで、一人で背負おうとして。いつもいつもいつもいつも。俺には何も言ってくれないじゃん!」
それと一緒だと声を上げる。
「ねえ、俺そんなに頼りない?」
颯太の心は泣いていた。
「俺はいらない?」
「そんなこと……」
「じゃあなんで翔兄は言ってくれないの」
俺の願いなんて、と。
颯太は感情のままに口を動かす。
「翔兄には関係ない!」
関係ない……その言葉は消えるよりも先に家中に木霊した。
「……何それ?」
一瞬の間を置いて翔から放たれたのは、冷たさを帯びた声で。
「あ……」
ハッと我に返ったように颯太が口を押さえるが時は既に遅く。
二人の間にヒビが入ってしまっていた。
「……」
重苦しい沈黙が流れる。
どうしよう、と颯太が焦っているのが、一歩引いた位置で見ているミコトにはわかった。
「……ごめん。ちょっと外の空気吸ってくる」
「え、あ……ま、待って、翔兄!」
颯太が引き留めようと慌てて腕を伸ばすも。
バタンと音を立てて玄関は閉まった。
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