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「弟にはね。こんな兄で本当に申し訳ないって、思っているんだ」
私は隣に座る彼を見た。お猪口を親指でなぞりながら、彼は俯いていた。
「弟はね、絵がとても巧いんだ。本当だったら、高等学校を卒業してから美大に入ることも出来たはずだ。でも、僕がこんなんだから、彼は普通の大学に行かざるを得なくなった」
お猪口を一気にあおり、彼は顔を上げて憂いを滲ませた表情をした。
「好きなことを諦めなきゃいけないこと程、辛いものはないと思う」
「病は君のせいじゃない。君だって、好きなことの一つや二つあるんじゃ
ないのか?」
彼だって、病弱故に諦めた事柄があったはずだ。辛いことや苦しいことを人一倍に受けているのだから。
「そうだね。遠い土地をこの目で見てみたかった」
彼は月を遠い目で見つめていた。遠出の出来ない彼にとって、この土地以外の場所はすべて空想でしかないのだろう。
「あの女は何処から来るのだろうね。一度、聞いてみたいものだよ」
彼の言葉で私は、自分の使命を思い出す。
残った酒を飲み干し、私はそろそろ床に入ろうと彼を促した。
電気を消すも、部屋の中は仄かに明るかった。障子が白く発光し、私は幼い頃に影絵をしたことを思い出した。
「僕が見張っているから、安心して君は寝たまえ」
布団に胡座をかいた私は、横たわる彼に告げた。
「すまないが、そうするよ」
彼はそう言って、目を閉じた。ああは言っていても、彼も無理をしていたのだろう。
疲れと緊張からか、しばらくすると静かな寝息が聞こえ始めた。
私は彼の青白い寝顔から目をそらし、障子を見つめた。
いつ、女が現れるか予測が出来ず、私は寝ずの番の覚悟でいた。
しばらくは平気だったが、さすがに何もしないで障子を見つめ続けるのは苦行だった。それに酒と寒さのせいか、厠にも行きたくなっていた。
私は大きな欠伸をした後、そっと立ち上がって厠へと向かった。
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