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プロローグ
「小説では、誰かのたった1つの言葉で、主人公は立ち直ったり、勇気が出たりするじゃないですか。だけど現実では必ずしもそういうことが起こるとは限らない。……でも、それでいいと思うんです」
私の目の前では、髪の長い女性がうんうんと微笑みながら頷いている。
エアコンから吹き出てくる風が冷たくて、私はそっと手を擦り合わせながら続けた。
「決定的ななにかがなくても、場所や時間を共有したこと自体が、支えになることもありますから。自分を受け入れてくれた人がいた、という事実だけで、人は生きていけるんだと思います」
彼女と私の間に置かれたテーブルの上でまわっているボイスレコーダーを何度も何度も聞き返して、彼女はこの後文字起こしをするのだろう。いつまでたっても、自分の音声が記録され、自分のいないところで再生されるというのはなんとなく気恥ずかしい。
私が寒がっていることに気がついたのか、インタビュアーの女性が私にブランケットを手渡してくれた。気がきく人だ。
ありがとうございます、と言う私ににっこり微笑んだ後、彼女は真剣な眼差しでまっすぐに私を見つめて問うた。
「その人は今、どこにいるんでしょう」
今でも鮮明に思い出せる。
ざらついたドアノブ、軋む床、キャンバスの上を弾む筆、インクの香り。
秘密を共有し、けれど最後までそれを口に出すことをしなかった私たち。
思い出とともにブランケットを手繰り寄せながら、私は頭に浮かんだ言葉をそのままゆっくりと口にする。
「どこかで、そらをかいていると思います」
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