30日(1)

1/1
90人が本棚に入れています
本棚に追加
/11ページ

30日(1)

 希美と別れて実家に着いたあと、文は勇気を出して伸享に電話を掛けた。 まだ二次会で飲んでいて気付かないのか、それとも、電話番号が変わってしまっているのか、応答はなかった。文はあきらめて電話を切る。  居酒屋でついたであろう、いろいろ混ざったにおいを落とそうと、文は浴室へ向かった。 髪を洗い、体の汚れを落とし、浴槽へ浸かる。 「シングルファーザーかあ・・・」 ぽつりと独りつぶやく。27歳、自分はまだ結婚すらしていない。今は恋人もいない。伸享はもう子持ちで、しかも一人で育てている。 「あの沢村が父親かあ・・・」 なんとも形容しがたい、複雑な気持ちだった。羨望なのか、憐憫なのか、郷愁なのか・・・。  放課後、美術室で並んで書いたデッサン、水彩画、油絵。美術室の汚れた床、油のにおい。そういえば、美術室の裏に生えた枇杷の木には、たくさん実が生って、その時期には毎日のようにもいで食べたっけ。・・・思いだすと自然と笑みがこぼれ、胸の奥がきゅぅとせつなくなる。  高校に入学して、連休明けのある日。友人に付き添ってもらって、美術部の見学に訪れた。空け放された窓から中を覗くと一人の男子生徒が座っていた。 「あの、美術部の見学に来たんですけど・・・」 美術室のドアを開け、文が声をかけると、 「顧問の先生なら、会議が終わってから来るって聞いてるから、少し待てる?」 と言われ、文は友人と二人、美術室の端のほうに腰かけた。  彼は、花を生けた花瓶を模写しているようで、じっと見つめては、スケッチブックに筆を走らせていく。まだ初々しさが残る横顔に、新入生だろうか、と思いながらも、友人と二人、小声で話しながら先生を待っていると、20分ほど経った頃に、ドアの開く音がした。 「先生、見学だって人が。」 彼が先生に声をかけ、文と友人は席を立つ。先生が二人に気が付いて、笑顔で話しかける。 「ああ、お待たせしてごめん。軽く説明・・・と言っても、そんな大げさなものは何もないんだけど・・・お茶でも飲みながら少し話そうか。沢村くんも、少し休憩したら」 そういって、隣の準備室に姿を消した。沢村くん、と声をかけられた生徒は、じゃあ、と立ち上がった。教室の前の方のテーブルに集まり、輪になる。先生は、隣の準備室から急須と湯呑をトレイに乗せて戻ってきた。湯呑にお茶を注ぎ、皆に配ってくれる。 「僕が、美術部の顧問をしている山中です。選択科目で、美術を選択してたら、僕が担当することになるね。・・・見ての通り、今日来てる部員は沢村くんだけで・・・3年生に二人、2年生に三人、部員がいるけど、さぼり気味かなぁ。」 先生は笑顔を湯呑に口をつける。 「で、一年生は、今ここいいる沢村くんが、もう入部する、ってことになってて・・・いいんだよね?」 先生に話しかけられ、うんうんとうなづき、文の方をみた。 「1-Aの沢村です。よろしく。」 「あ、1-Fの一ノ瀬です。」 文はペコリと頭を下げる。続けて友人も、自分は付き添いで来ただけだけど、と自己紹介をして頭を下げた。  活動は、一応週に3回、書きたいときは、部屋が空いていればいつでもきてもよい、と言われた。先生が課題を出すこともあるし、自分が書きたいと思ったものを提案してもよい。文化祭では、作品の展示をしている。さぼり気味の上級生も、文化祭の展示には、ちゃんと作品を出して、当日の当番もちゃんとしてくれるから、そこは安心してほしい。高校生のコンテストに応募することもあるが、強制ではない・・・というような話だった。 「まあ、すぐに決める必要もないから、何度かお試しで来てみて、気に入ったら入部してくれたら」  そういわれて、次の週、その次の週と、今度は一人で放課後美術室に足を運んだ。上級生は居たり、居なかったりしたけれど、いつも沢村はいて、何か絵を描いていた。美術室の空気と、いつも休憩だとお茶を入れてくれる先生の雰囲気にも癒され、そして、もの静かだけど、ちゃんと向き合って話もしてくれて、真摯に課題に取り組んでいる沢村の姿に影響され、結局文も入部することにしたのだった。  タオルで髪の毛を覆いながら部屋に戻ると、ケータイが光っているのが目に入った。駆け寄ると、ディスプレイに伸享の名前が表示されている。文は急いで電話をとる。 「・・・はい」 「一ノ瀬・・・だよな?」 懐かしい声がする。文は、じんと目頭が熱くなり、うまく声が出せない。 「うん。・・・久しぶり」 「久しぶり。ごめん、さっき、せっかくの機会だったのに、全然話せなくて」 「ううん。私こそ。・・・まだ、みんなで飲んでるの?」 「うん。まだ捕まってる。ちょっと、電話かけてくるって出てきた」 伸享の背後から、車の通りすぎる音や、人の騒ぐ声が聞こえる。 「盛り上がってるんだね。・・・元気だった?」 「うん。一ノ瀬は?」 「私も、変わらず元気にやってるよ」 二人とも、遠慮がちに押し黙る。少しの沈黙の後、文のほうが先に言葉を発した。 「・・・あの、なんか・・・、久しぶりだから、少し、話したいって思って・・・」 「うん。・・・俺も、話したいと思ってた。」 伸享が電話の向こうで頷く。心音が高鳴るなか、文はダメ元でと口を開く。 「私、年始3日まで、こっちにいるから・・・会えないかな?」  少し仕事が残っているから、自宅でいいかと聞かれ、次の日の午後、文は伸享の家へ向かった。小さな子どもがいるなら、自宅のほうが楽だろうし、せっかくならさやかにもお参りさせてもらおう、と訪問した。  文の実家の最寄り駅から5つ離れた駅で電車を降り、教えてもらった住所を頼りに歩く。15分ほど歩くと、20戸ほどの規模のきれいなマンションにたどり着いた。部屋番号のチャイムを鳴らすと、伸享が扉を開けた。今日は、ひげはきれいに剃られていた。 「ごめん、わざわざ」 「こちらこそ、仕事があるのにごめん」 そんなやり取りをして中に招き入れられたが、思っていたよりも部屋の中は静かだった。てっきり、子どもが飛び出してくるかと想像していた。 「さやかに・・・お参りさせてもらってもいい?」 「・・・ありがとう」  伸享に案内された部屋に置かれた小さな仏壇に手を合わせ、リビングに移動する。子ども用の食器が棚に並んでいるのを見て、昨日希美から聞いた話は現実なのだと再認識した。 「お葬式、来れなくてごめんね」 「あーー、うん、いや、それは、うん。」 伸享は言葉を濁す。文を、ダイニングセットの椅子の一つに座るよう案内する。伸享は台所へ向かい、ヤカンを火にかける。文は台所に向かって話しかけた。 「ごめんね、仕事残ってるって言ってたのに、時間作ってもらって。」 「ううん、俺も、久しぶりに、少し話したかったから。昨日は黒田たちと会うのも久しぶりだったから、つかまっちゃって。結局電話切ってからもしばらく飲んでて・・・帰ってきたのは2じ位かな・・・」 「2時?・・・まだ眠いんじゃないの?」 伸享は、戸棚から茶筒と急須を取り出す。部活のときも、顧問の先生が用意してくれていたお茶を、よく入れてくれていた・・・と懐かしく思い出す。 「はは・・・、でも、酒は抜けてるよ。・・・一ノ瀬は、今も、広告会社勤めてるの?」 就職が決まった後に、何人かで集まったときの話を覚えてくれていたのだ。文は少し笑顔になる。 「うん、続いてるよ。web系の仕事してる。まあまあ忙しくしてるよ。沢村は、今は実家の印刷屋さん継いだって・・・」 「・・・ああ。でも親父もまだ現役だし、空いてる時間は、フリーランスとして、webデザインの受注を受けてる。残ってる仕事って、そっちの関連でさ。」 文は、忘れないうちにと、持参した紙袋から、菓子缶を取り出して、テーブルの上に置いた。 「希美から聞いた。いつのまにか、シングルファーザーになってるなんて、びっくりしたよ。今日、お子さんは・・・?保育園?・・・これ、一緒に食べて。」 「・・・ありがとう。・・・子どもは、今日は、義理の実家に行ってる」 伸享は、文の前の椅子に腰かけた。 「そっか。顔見てみたかったのに。男の子なんでしょう?沢村に似てるのかな」 「似てないよ」 何の気もなく発言した文だが、伸享はぶっきらぼうに返答する。そして 「俺の子じゃないから」 とさらりと告白した。文は、混乱した。 「え?え?・・・・どういうこと・・・っ?」 「だから、俺とは血がつながってない、さやかと、別の男との子ども。」 伸享は、髪の毛をくしゃくしゃと乱す。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!