30日(2)

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30日(2)

「なんで、そんなことになったの?」 ふるえる声で、文が尋ねる。伸享は、手元に視線を落とした。 「・・・俺と、さやかが高校卒業した後、別れたって知ってたよね」 それは知っている。大学入学後、半年ほどして、別れたと伸享から直接聞いた。そのとき、文には恋人がいて、それなりに楽しく過ごしていたし、強い想いを自覚する前だったから、なにかアクションを起こそうという気持ちもなかった。 「別れても、たまに連絡は取ってたよ。元気にしてるか、ってくらいの・・・近況報告。大学卒業して、俺は制作会社に就職して・・・。さやかも就職して、その就職先が割と近所で。たまに、ほんとにたまーに、連絡とってた。」 文は黙って聞いている。 「入社してしばらくたった頃、さやかは、妻子持ちの上司と不倫関係になった」 文は顔をこわばらせる。血の気が、さっと引いていく。 「さやかは悩んでたよ。別れようと思っても別れられない、って。15も年上なんだけど、好きなんだ、って。・・・で、そんなことが一年も続いた頃に、子どもができた、って相談されたんだ。」 伸享は淡々と話す。 「・・・で、沢村が父親になる、って結婚したの・・・?」 文は声を震わせた。 「・・・うん。」 「さやかが亡くなって、シングルファーザーになって、子育てと両立するために、家業継いで、自営業になって・・・」 「そうだよ」 「自分と血はつながってないのに・・・」 どうしてそこまでして、と文は苛立った。くやしくて涙が出そうになった。 「俺の親は知らないから、・・・そこは口止めさせて」 伸享は文のほうを見て言った。 「子どものことは・・・」 一度言葉を区切って、どう話そうか、悩んでいるようだった。文は黙って伸享の言葉を待った。 「・・・産まれたときから、抱っこして、おむつ替えて、一緒に寝て、遊んで・・・。血のつながりがなくっても、俺の息子なんだ。・・・わからないかもしれないけど・・・、理屈じゃないんだ、これは。」 文は、いつの間にか涙を流していた。伸享は、だまってティッシュの箱を差し出す。 「なんで、一ノ瀬が、泣くの・・・」 「・・・」 文は黙って差し出されたティッシュの箱を受け取り、涙を拭いた。 「さやかが、亡くなったとき・・・」 ぴくり、と伸享が反応する。 「男の人と、一緒だったって」 伸享は、はあ、と大きくため息をつく。 「そんな話・・・」 「もしかして、子どもの父親と、一緒にいたの・・・っ」 涙と鼻水で、メイクもぐちゃぐちゃになる。嗚咽があがってくる。文はかまわず、続けた。 「沢村に、父親役押し付けて、自分は・・・っ」 伸享は重い口を開く。 「・・・うん。」 ヤカンが湯気を吐き出している。伸享は立ち上がって、キッチンに向かう。湯呑にお湯を注ぎ、少し冷ます。急須に茶葉を入れ、湯呑にいれた湯を急須に注いで、ふう、と大きく息を吐く。湯呑に注いだお茶を両手に持ち、片方を文に差し出す。受け取るときに、湯呑についた水滴がスカートに落ちた。 「あ、ごめん・・・」 「大丈夫、熱くないから」 文は、バックからハンカチを出して水滴を押さえる。 「一つだけ」 伸享は湯呑に口をつけ、お茶を一口含んだ。 「一つだけ、さやかに条件を付けたんだ。俺が、子どもの父親になる条件。」 伸享の視線につられて文も目線を向けると、その先には、壁に掛けられたカレンダーがある。そこには、伸享の仕事の予定と、子どもの保育園の行事であろう予定が色分けして書かれていた。余白には、子どもが書いたのだろう落書きがある。 「子どもを、本当の父親には、絶対に会わせないこと。」 文は伸享の方を見た。 「もう、俺の子どもだから、俺が本当の父親だから、って」 文は再び涙をこぼした。 「事故の後しばらくして、相手の人が、謝罪に来てさ・・・。もちろん、子どもは保育園に預けてる時間にしてもらったんだけど。顔見たら、わかったよ。ああ、この人か、って。」 伸享は遠くを見るように視線を彷徨わせる。 「自分のためか、さやかのためかはわからないけど。・・・自分は職場の上司だって言われた。仕事の相談にのってて、遅くなったから、うちへ送る途中だったんだ、申し訳ありません・・・って言われたよ。」 「仕事の相談って・・・その会社、辞めてなかったの?」 「うん。そのまま勤めてたよ。さやかは仕事好きだっていってたし。」 「そんな、不倫相手がいる会社で働き続けること、許したの?」 「・・・もう会わない、って言葉を信じたよ」 もう一口、二口、伸享はお茶を口にした。 「俺、さやかと結婚しても、やっぱり友達の延長って感じでさ。結婚したときは、妊娠してたから・・・さやかも、納得してたんだけど・・・。やっぱりあんまりそんな気持ちにはなれなかったんだ。その、・・・女の人として見るっていう。さやかは、産後復職して、再会して・・・。自分を女として求めてくれる相手と、よりを戻したのかもしれない」 文は黙って聞いていた。伸享ははあとため息をついた。 「本当のところはわからないよ。本当に仕事の帰りだったのかもしれないし。実は二人で会ってたのかもしれないし。・・・でも、どっちでもいいんだ。」 伸享は立ち上がる。 「俺は、今、孝人をちゃんと育てていければ、それで。」 台所から急須をもってきて、湯呑へとつぎ足した。 「沢村は」 文は伸享に視線を向ける。 「沢村は、それで、いいの」 「・・・いいよ、いまのところは。」 伸享は手持無沙汰に湯呑を両手で持ち直す。 「もともと、就職して、しばらく経験つんだら、実家の印刷業を継ぐつもりだったし。それがちょっとだけ早くなったくらいだよ。」  文は、部室で絵をかいていた伸享の姿を思い出していた。夏休み、汗をかきながらキャンバスに向かう横顔。こまやかな絵筆のタッチ。本当に絵をかくことが好きなんだなと思わせた。照れ屋で、文が絵をほめると少し耳を赤く染めて嬉しそうに笑った。  伸享の作り出す色彩が好きだった。卒業制作で描いた校舎の窓や壁には、文が使うことを考えもしなかった色が混ざっていた。伸享の目には、こう映るのか、こういう表現もあるのか・・・、と感嘆した。淡く、やさしい色彩で描かれる風景や動物は、やわらかく、丁寧に表現され、そして慈愛に満ちていた。  そんなに、好きだったんだろうか。さやかのことが。血のつながらないこどもの父親になれるくらい。忘れられなかったのだろうか。さやかのことが。伸享のことを忘れられなかった自分のように。文は落ち着きを取り戻そうと、しずかに深呼吸をしながら考えていた。
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