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雨が降り出してきた。
天気予報を見ていたのに、どうして傘を忘れてしまったんだろう。
同じように傘を持っていない人は、お店の屋根の下に駆け込んだり、どこかへ走っていく。
そんなふうに急ぐ気力も起きず、ただ濡れながら夜の街を歩く。
どこへ行きたいのか、何をしたいのかわからない。
これから、どうしたらいいのかもわからない。
八年間勤めた会社を数ヶ月前に辞め、今は転職活動と婚活の二つを同時に進めようとしている。
でも、実際にはどちらも進んでいない。
むしろ、どちらにもフラれっぱなしだ。
ハローワークと結婚相談所に加え、最近はもう一つ、通う場所が増えてしまった。
私は握り締めたままだった心療内科のレシートを、上着のポケットへ押し込んだ。
人混みの中、雨空を焦がすように輝くビル群を見上げる。
どんなに美しい輝きも、周りの楽しそうな笑い声も、私には冷たく無機質なものでしかない。
先の見えない不安、「もう幸せになんてなれないのでは」というあきらめ、世界から取り残されたような孤独感。
この苦しみを、誰に言えば良い?
周りの友達は次々と結婚し出産し、仕事で成功し、幸せな人しかいないように思えた。
幸せそうな人に暗い話などできない。こんなことに行き詰まっていることを知られるのも恥ずかしい。
じゃあ、親か。
私の行く末をずっと心配している家族に、がっかりさせるような話はしたくないと思った。これ以上、心配をかけたくないと。
心療内科の先生にだって、深いことは話せない。
誰にも言えない。話せない。
私は何を求めてさまよっているのだろう。
気がつくと、路地裏の古びた喫茶店の前に立っていた。
まだ帰りたくないし、お茶でも飲んでいこうか。
そんなふうに思っていると店のドアがカランカランと開き、マスターらしき中年の男性が出てきた。
「大丈夫ですか。びしょ濡れですよ」
雨の中、店の前でぼうっとし過ぎただろうか。
「……大丈夫です」
なんだか急に恥ずかしくなって立ち去ろうとすると、男性が再び声をかけてきた。
「中でお茶でもどうですか。体が温まりますよ」
私はゆっくりと振り向いて、こくりと頷いた。
どこか懐かしい雰囲気のある店内は、私以外に客の姿もなく、クラシック音楽だけが静かに流れていた。
「お好きな席へどうぞ」
マスターに促され、窓から一番遠い壁際の席を選ぶ。やわらかいソファーの感触が心地よく、どこか安心できた。
店の奥から出てきたマスターの手には、真っ白なタオルがあった。
「よかったら、お使いください」
「いえ、そんな……」
「風邪をひきますよ」
私はふわふわのタオルを受け取り、頭を下げてお礼を言った。こんな気遣いをしてくれるお店があるのかと、少し驚いている。
「おすすめはコーヒーですが、どんなものが飲みたいですか?」
お水を運んできたマスターに問われ、私はメニューを眺める。
「……ホッとするものが良いです」
曖昧な返答に戸惑う様子もなく、彼は穏やかな笑顔を見せた。
「じゃあ、カフェラテはどうでしょう」
「……お願いします」
マスターが席を離れると、私は店内を見渡した。
都会の中にあるとは思えないくらいに、ここだけ別世界のように穏やかだ。
まるで、落ち込んでいる私を待っていたかのように受け入れてくれた世界……。安心する。
「お待たせしました」
やがて、マスターがカフェラテを目の前に置いてくれた。
「いただきます」
湯気の立つコーヒーカップを、そっと口に運ぶ。優しい甘さと心地良い香りが口の中に広がり、やがて喉をつたって胸をじわっと温める。
「美味しい……」
思わず声を漏らすと、マスターは優しく微笑みかけてくれた。
「よかった」
ああ。そっか。
私は疲れていたんだ。
癒されたかったんだ…………。
何でも、誰でも良い。
「優しさ」に触れたかった。
もう一口飲むと、いつの間にか涙がこぼれていた。
「あったかいなあ……」
そっと涙を拭って笑うと、マスターも微笑み返してくれる。
体が温まった頃には、雨もあがっていた。
レジで金額を訊ねると、マスターは笑顔で首を横に振るだけだった。
「いえ、色々親切にしていただいて、お金を払わないっていうのは……」
「私が強引に声をかけたのです。だから、今日は気にしなくて良いですよ」
「でも……」
マスターは、とても優しい眼差しで微笑んでいた。
「また、いらしてください」
よくある挨拶。でも私は、その一言が嬉しかった。
「ありがとうございました。また来ます」
笑顔で会釈をすると、今度こそ家へ向かって歩き出す。
大丈夫だ。まだ頑張れる。頑張ってみよう。
休める場所を見つけたから……。
数ヶ月後。
喫茶店の窓の外に、寂しそうな目で佇む女子高生の姿が見えた。
「中で、お茶でもいかがですか。温まりますよ」
女子高生はこくりと頷くと、店内に入る。
「どんなものが飲みたいですか」
「……優しい味のするもの」
いつかの私と、彼女の姿が重なる。
どうしたら望む未来に辿り着けるのかは、今もわからない。
それでも、今やりたいことはある。
だから私は、ここに居る。ここから、ちょっとずつ進んでいこうと思う。
「じゃあ、ロイヤルミルクティーはどうでしょう」
私が笑顔で声をかけると、女子高生は嬉しそうに口元を緩めた。
「ありがとう」
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