愛だ恋だと言うなかれ【試し読み】

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1.  オックスフォードだったかハーバードだったか、どこかの偉い大学が発表した、十年後消えてなくなる職業リストに会計士も入っていた。ほとんどの仕事は、将来コンピューターに取って代わられるらしい。もしそうなら、今からもう少し楽になってくれてもいいと思う。  希望の職種なんてないまま、大学卒業後、この三倉市近辺ではそれなりに名の通った会計事務所の社員になった。日本では三月期決算の法人が多く、その申告期間に当たる四月から五月、特に期限の迫る五月は、会計業界では個人の確定申告の時期に次ぐ繁忙期だ。体感では、年明けから徐々に忙しくなり始め、それから半年間ずっと慢性的な繁忙期といった印象である。  自動化など夢のまた夢と感じるほど、アナログな仕事だ。膨大な紙の資料とデータを見ながら、電卓を叩き、検算用紙に赤ペンを走らせる。その間に電話が鳴り、急遽の仕事がまたひとつ増えたのにげんなりしつつ、データのチェックに戻る。データの基礎を作ったのは部下だが、最終的な責任者欄に記されるのは自分の名前だ。新人時代はよく、こうやって先輩社員の決算業務を手伝わされたものだが、いつの間にか自分がその先輩側に立っている。  野上(のがみ)知晴(ともはる)三十三歳。今年の夏で三十四歳になる。  三十を過ぎたあたりから、少しずつ責任のあるポストに押し上げられ、同期の女性が部下になり、承認ルートの検印欄が繰り上がった。責任のある仕事なんてできれば他人に回したいのに、盲目的なまでに年功序列で役職は上がり、今やすっかり中間管理職だ。  ふと腕時計が目に入る。思わず壁掛け時計と見比べたところで双方の時刻に差があるわけもなく、うっかりしているうちに予定時刻に近づいているのに気づく。知晴は広げた書類を掻き集め、ノートパソコンを閉じ、書類ケースに筆記用具にと、慌てて鞄に詰め込んだ。 「ごめん鹿野(かの)ちゃん、行こっか」  少し離れた席からこちらを窺っていた彼女がおかしそうに笑いながら頷き、ゆっくり立ち上がる。このところ日ごとに、腹が大きくなっているような気がする。 「荷物それだけ?」 「うん、私は挨拶だけだし」  これから向かうのは、鹿野が長年担当している建設会社だ。彼女が産休に入るに当たって、他の社員で一時的に担当を引き継ぐのだが、主には社歴の浅い社員が勉強がてら引き継ぐものの、一部、練度の必要な関与先は彼女の上司でもある自分が受け持つことになっている。今日は担当変更の挨拶を兼ねた初めての訪問だから、初っ端から遅刻して悪印象を与えたくない。  ホワイトボードに時刻を書き込み、事務所のドアを開ける。廊下を曲がった先の受け付けに来客の姿がちらりと見え、呼び出し用の内線電話に手を伸ばそうとしていたその人物も、こちらに気づいて顔を上げる。 「あれ」  三つ揃いのスーツに隙なく身を包んだ、四十絡みの男だ。いや、三十七歳という彼の年齢を知っているから四十絡みと評したが、外見からはとてもそう思えない、若々しく精力的で、いつでも颯爽とした、提携先の行政書士兼司法書士である。その甘い風貌から社内にファンも多い。傍らの鹿野が、愛想よく口を開いた。 「あ、徳永(とくなが)先生、お久しぶりです」 「お久しぶりです。ああ、そっか、ずいぶん大きくなりましたね」  徳永が鹿野の臨月の腹に慈しむような目を向けて柔らかく笑うと、鹿野も嬉しそうに笑い返しながら、同じく慈しむように自身の大きな腹をさする。 「来月から産休に入るんです」 「いよいよだね。お大事に――って、こういう時には言わないか」 「あはは、ありがとうございます」  微笑ましい光景ではあったが、世間話に花を咲かせるわけにもいかないと、ふたりの間に割って入る。 「先生、ご用件はもう伺いましたか?」 「ああ、まだだった。これを届けに来ただけなんだけど」 「お預かりしますよ」 「ありがとう」  鷹揚に頷いた彼から、大きな茶封筒を受け取る。それじゃあ、と辞そうとした知晴を、しかし彼は人差し指を一本立てて呼び止めるのだった。 「野上くん、ごめん、一分だけ」  この「一分だけ」が当てにならないのは、彼に関わりのある人間なら皆知っている。一分で終わることなどまずない、ということだ。内心深くため息を吐きながら、知晴は鹿野へ車のキーを手渡した。 「鹿野ちゃん、先車行ってて。荷物、後ろ使って。エアコンつけといてくれる?」 「はーい」  苦笑がちではあるが明るく笑い、鹿野が社員通用口から出て行く。彼女の後ろ姿を横目で見送りながら、知晴は徳永に向きなおった。 「なんですか?」 「できれば中で。いいかな」 「わかりました」  二部屋隣りあった応接室のひとつが消灯されているのを確認し、彼を中へ通す。 「申し訳ないんですが、これからお客さんのところに行かなきゃならなくて」 「了解、手短に」  徳永はくるりとこちらを振り返ると、穏やかに微笑んだ。 「さて、何か気づかない?」  目の前にあるのは、近頃直接会う機会は少なかったものの、見知った行政書士兼司法書士の男の顔だ。緩い癖のある髪、ポーズを取っているわけでもないのに絵になる立ち姿、柔和な人懐こさはあるがダブルライセンスを持つだけの知的さと、どこか人の悪さも滲む表情。手短にと言っておいて、第一声から試すようなせりふに困惑させられる。 「……なぞかけですか?」 「そんなに大層なことじゃないよ」  今は頼んでいる書類もないはずだが、ひとつくらい頭から抜け落ちていやしないかと、急に自信がなくなる。いや、そんな用件だったら、こんな言い方……この人ならするかもしれない。 「先生、俺、実は遅刻寸前なんですけど」 「あ、ごめんごめん」  知晴が冗談めかしつつも非難めいた素振りを見せると、彼はあっさりと非を認め、降参するように胸の前で両手を挙げる――――そうまでされて、ようやく気づく。彼の左手に結婚指輪がない。ほんの一瞬の戸惑いのせいで言葉が出ないでいると、彼はちらりと上目遣いを寄越し、とうとう、堪らずといった様子で吹き出した。 「離婚したんだ」 「ええ……はい、そうみたいですね」  直截に告げられればやはり戸惑うものらしく、知晴の間の抜けた返事がまた彼を笑わせる。徳永は目を伏せて、ふふふっと両肩を震わせていたが、その唇を軽く引き結ぶと、笑みを消してもなお柔和な表情で言うのだった。 「話したいことがあるんだ、色々」 「……俺は愚痴でも聞かされるんですか?」 「そこまで無神経じゃないつもりだよ、自分では」 「慰め役も荷が重いです」 「意外かもしれないけど、最後まで円満だった」 「じゃあ、懺悔とか?」 「きみが聞いてくれるなら」  相変わらず、ずるい言い方だ。 「会えないかな、近々」  懇願のふりをして、きっと端から拒絶されるなんて思っていない。指先をかすめて甲へたどろうとする、ゆきすぎた手を避け、知晴はこれ見よがしに腕時計の盤面を彼に向けた。 「一分経ちましたよ、たぶん」 「返事はくれないの?」 「俺がこの時期忙しいってこと、忘れました?」 「そうだった」  やっと業務に目処が立ったから、明日の休日出勤に備えて今日は早めに上がろうと考えていたくらいだが。それを打ち明けるのは癪だった。 「あとで連絡してもいい?」 「そんなこと、いちいち聞く人でしたっけ?」 「前はそうじゃなかったね」  知晴の当てこすりにも人を食った返事をするばかりの彼が、しかし今目を伏せる仕草は、失笑をごまかすためではなく少し気まずい思いをしているからだと、不覚にも理解できてしまう。同時に、こういうふとした時に見せる甘えるような仕草が、嫌いでなかったと思い出している。 「引き止めてごめん」 「……いえ」 「連絡するよ」  じゃあ、と言った彼に軽く頷き返し、颯爽とした後ろ姿を見送る。やたらにクッションの利いた応接室のドアが、ぐずるようにゆっくり閉じきる。取り残されたほんのかすかな香水の香りに、今も銘柄をおぼえているのに気づかされる。知晴はこの短い時間に何度押し殺したかわからないため息を、腹の底から吐いた。はあ。  有り体に言えば、元彼だった。彼とは三年付き合って別れた。別れた理由は彼の結婚だった。たったそれだけ、と言うには少々込み入っていたが、人知れず始まって終わった関係だった。ティーンエイジャーでもなし、お互いにいい大人だから仕事に影響することもなく、顔を合わせれば変わらず他人のふりで接してきた――――なんて、思い出に浸る時間も、今はないのだ。 「ごめん、お待たせ」 「ううん、早かったね」  運転席に乗り込みながら謝ると、徳永の話が長いことを身をもって知っている鹿野が、愉快そうに笑う。 「社長、時間にうるさいタイプ?」  自分ひとりなら多少飛ばしてでも間に合わせるが、横に妊婦を乗せて無茶な運転はできない。 「全然、かなり大雑把だよ」 「良くも悪くも?」 「あはは、ていうか、現場の人って感じかな。経理は他の人に任せっきりで、もっと税金安くならないのか、みたいなことも言わないタイプ」 「あー、うるさいよりいいわ」  知晴のぼやきに大らかに笑う彼女もまた、大雑把な性格だ。とはいえ仕事はいつも完璧で、正直なところ彼女の産休はかなりの痛手だった。同期は自分と彼女、それにあとひとりの三人で、若い頃は社内でよくつるんでいた。今、自分が彼女の上司である理由なんて、地方の中小企業の旧時代的な体質の問題でしかないだろう。数年前の人事考課には彼女自身も抗議し、結果、特例的と言えば聞こえはいいが、社内に本来なかった副主任という臨時的な役職で自分の下で働いてもらっている。近々主任職にと約束されていたが、今の彼女は新しい生命を宿し、復帰後は時短のパート勤務を希望していた。  彼女の性別が違ったらとか、妊娠していなかったらとか、そんな「たられば」は大きなお世話だ。自分がほとんど自動的に望みもしない中間管理職になったように、彼女は会社の進める名目ばかりの男女共同参画のモデルに、やはり望みもせずに祭り上げられている。  彼女の大きな腹を見れば、こんな自分でも小さな生命への愛おしさみたいなものを感じるし、虚しさが込み上げもする。  自分は今三十三歳で、夏には三十四歳になる。誰かの言う人並みの人生を送っていたら、結婚して子供がいてもおかしくない。三十を過ぎて、親からは結婚を急かされるようになった。それ自体はよくある話だ。「可愛いお嫁さん」を望んでいた母親も最近では「可愛くなくてもいい」などと言いだす始末だが、残念ながらどちらも叶えてやれそうにない。  思春期の頃は、もし自分がゲイじゃなければ、なんて「たられば」で悩んだりもした。今はもう、これが自分の人生のレールというやつなんだとわかるし、それに抗う気概もない。だから、適当な相手と恋愛を楽しんで、出世しすぎないようにほどほどに仕事をこなしながら、自動運転に身を任せるのがいい。 「そうだ。今日、社長の息子さんも同席するって、私言ったっけ」  助手席の鹿野が身じろぎをし、見上げてくる。とにかく彼女は、こういうところが大雑把だ。 「今聞いた。息子って、娘さんの旦那だっけ?」 「そっちじゃなくて、実の息子。娘さんの弟。息子さん、東京で働いてたんだけど、戻ってきて、四月から社員になったの。いずれ役員にして跡を継がせたいんじゃないかな」  よくある話だ。「東京の息子」あるいは「アメリカの息子」が突然帰ってきて、経営に口を出し、長年尽くした重役以上の給料を与えられ、大抵は揉める。これから訪れるナガコー建設も同族会社だから、そのへんのごたごたはいくらでもあるだろう。 「その時は徳永先生の出番だな」  役員変更となれば、登記が必要になる。徳永はそういう行政や司法の書類作成の専門家だ。書類作成業務は、提携先に頼るところが大きい。彼は元々、以前の提携事務所の社員だったのだが、独立と同時に「田淵みらい会計」――法人化してこの社名になったのは自分が入社するよりはるか前なので、ただただセンスがないと感じるだけだ――に関わる士業業務をそのまま任された人物だった。 「ねえ、野上くん」 「なに?」 「徳永先生、指輪してなかったよね?」  さて、女性は目ざといものだと思わざるを得ない。 「そう?」 「気づかなかったの?」 「見ないだろ、他人の指輪なんて」 「野上くんはそうかもねえ」  鹿野は自らの結婚指輪を撫で、当てが外れたように唇を尖らせたが、すぐにからりと笑った。 「今度聞いておいてよ、それとなく」 「俺が?」 「仲いいじゃない」 「……そうかな」  知晴は口の中で曖昧に反論し、信号が黄色に変わったのに、ゆっくりとブレーキを踏んだ。  ナガコー建設は、三倉市では大きな建設会社だ。  広い敷地に、L字型の事務所が建っている。手前の駐車場にはトラックや重機が停まり、この時間ではほとんど出払っているが、時折街なかで見かける営業車も数台ある。その横、来客用と書かれたスペースの一番端に車を停めたのは、約束を十分ほど過ぎた時刻だった。インターホンで鹿野が名前を告げると、顔馴染みらしい事務員に応接室へ通され、やがて初老の男がふたり現れる。ちょうど知晴の父親くらいの世代だろう、どちらも作業着にネクタイで下はスラックス、いわゆる現場監督のイメージそのままの、建設会社ではよく見る身なりだ。 「社長と専務」  鹿野の手振りで、それぞれに紹介される。 「鹿野の産休中の担当になります、野上です」 「どうも、よろしくお願いします」  この世代にしては長身の部類のおそらくゴルフと酒が好きなのだろうと一見してわかる、自分にとっても馴染みのあるタイプの人物が社長で、彼よりやや小柄で温和というか人のよさそうな人物が、社長の義弟に当たる専務だった。名刺交換だけと言って専務はすぐに立ち去り、社長が気さくにソファを勧めてくる。そしてやはり気さくな調子で鹿野のふっくらと大きな腹を見て、嬉しそうに目を細めるのだ。 「予定日いつだっけ」 「順調にいけば八月です」 「あ、お守り買ってきたんだよ、もうたくさんもらってるだろうけど」 「わあ、わざわざありがとうございます」  社長が彼女に手渡したのは、県内ニュースでよく聞く、初詣の参拝者数が多いことで有名な神社の名前が入った袋だ。感激する鹿野に、少し照れくさそうに、ぶっきらぼうに笑う。 「いやなに、先月までちょうどそっちで工事やっててね。ついでだって」  新人の頃から前任者に同行して、付き合いは十年になると言っていた。自分にもそういう関与先があるが、毎回ちくちく嫌味を言われたり怒鳴られたりすれば最低限の仕事しかしなくなるし、人情をかけられればこちらも心を砕くというものだ。 「今日、息子さんもいらっしゃるって聞いたんですが」  知晴が水を向けると、壁掛け時計を見やった社長が軽く眉をひそめる。 「ああ、すいませんねえ、時間までに戻って来るように言ってあるんだけど」 「あ、いえいえ」  そもそも遅刻したのはこちらだから、それを咎められなかっただけでも儲けものだ。お守り袋を鞄にしまい込んだ鹿野が、話を引き取る。 「でも、よかったですね。息子さんが帰ってきてくれて」 「まあねえ、娘の旦那は現場仕事はできるんだけど、俺と同じで経営は柄じゃないってさ。そうなったら辞めてやるなんて言われて、困ってたんだよ。まあ、息子にしても継ぐ気があるんだかないんだかは、わからないけどね。俺だって、東京でゼネコンの社員やってたほうが安定してるんじゃないかって思うよ」  そうですかあ、と、鹿野が愛想よく相槌を打ち、自分もその横で似たような表情で頷く。会計士の仕事なんて、ほとんど社長の公私に亘る愚痴を聞くことじゃないかとすら思う。大仰にぼやく社長の顔はしかし、嬉しそうにも見えた。 「ゼネコンにお勤めだったんですか」 「そうなんだよ。子供の頃からさんざん、うちは継がないなんて言っておきながら」  社長が口にしたのは、自分でも名前くらいは知っている企業名だ。地方の小さな建設会社など、その下請けや孫請けで経営が成り立っているところも多い。口では文句を言うが、さぞ自慢の息子だろう。 「息子さん、野上くんと同じ高校じゃなかった?」 「そうなの?」  大小様々、年に一度ささやかな確定申告があるだけの個人事業主から、一年中かかりきりの法人まで数百の関与先があるため、入社以来一度も関わっていない会社はいくらでもある。知晴にとっては、ナガコー建設もそのひとつだった。同時に、地域密着型の会計事務所では、学校の先輩後輩だの、誰それの親戚だの、何丁目の誰々さんだの、世間は狭いとしか言いようのないあらゆる繋がりが判明するのも日常茶飯事だ。  社長が挙げた高校名は確かに自分の母校だし、聞けば、息子という人物は今年で三十三になる――つまり一学年下らしい。 「あ、被ってますね」 「息子は陸上部だったんだけどね」 「僕もです」  社長はやや驚いたように目を見開く。 「純基(じゅんき)っていうんだけど。長峰(ながみね)純基、知ってる?」 「純基?」  その音を口にしたのは、十年ぶりなんてものではない。  ナガコー建設の社名は彼の父親、彼の息子には祖父に当たる創業者の名前から取られたと聞いている。三倉市の公立高校へはふたつ離れた町から自転車とバスで通っていた自分は、田淵みらい会計に入社するまでナガコー建設のことは知らなかったし、部活の後輩がその跡継ぎだとは当時知りもしなかった。 「すいません、遅れました」  背後から、野太い声が降ってくる。  見上げると、ずいぶん高い位置から、どこかむすっとしたような真顔の男がこちらを見下ろしている。作業着にネクタイ、下はスラックスの、彼の父と同じいわゆる現場監督のイメージそのままの身なりだ。左胸のポケットに突っ込んだ社員証を引っ張り出しながら、ソファの後ろを回り込む。 「遅かったな」 「すいません、出るのが遅れて」 「早く座れ」  先ほどまで嬉しそうに息子の話をしていたが、どうやら本人に面と向かっては言えない頑固親父らしい。 「新しい担当の、野上さん。お前の先輩なんだって?」  知晴は立ち上がり、彼の父親に渡したばかりの名刺と寸分違わぬもう一枚を、名刺入れから抜き出し、渡す。 「野上です」 「どうも」  慣れた手つきで渡された彼の名刺にも、首からぶら下がる青い紐の先の社員証にも、確かに「長峰純基」と書かれている。  鹿野の正面、知晴の斜め前にどかりと座った男――純基は、テーブルに置いた名刺と知晴を一度見比べ、それからひたとこちらを見ると、真一文字に結んでいた唇を薄く開いた。 「お久しぶりです、先輩」  強烈にフラッシュバックするのは、目が潰れそうなほど眩しい西日を受けた、しなやかなシルエットだ。体操服から伸びた長い腕、カモシカのような脚、滑らかなフォームのあの姿。 「どれくらいぶりなんですか?」  鹿野がにこやかに、自分たちふたりを交互に見て言う。 「卒業以来です」  にこりともせずに頷く今の純基は、当たり前だが、あの頃からずいぶん顔つきも体格も成長している。 「立派になったよなあ」  知晴が思わず呟くと、彼が軽く目を見開く。その表情が父親とよく似ているのが、少し不思議でおかしくもあった。 「――まあ、思い出話はあとにしましょう。まず決算の報告から」  彼は何かを言いかけたようだったが、知晴が足元の鞄を開けるのを止めることはなかった。  鹿野の作ったデータを元にした月次の監査報告も含めつつ、決算報告を行う。ナガコー建設も例に漏れず三月期決算で、つい数日前に申告データを送信し終えたばかりだ。報告書をめくりつつ、定型句の説明をしていく。鹿野の言うとおり社長は数字に苦手意識が強いようだが、彼の息子はそうでもないらしく、時々質問を挟みながら真剣な顔で聞いていた。 「納税額ですが、前もって鹿野がお伝えしていた金額からそれほど増えてはいません」 「はあ、まったく嫌になるよ」  予定納税を差し引いても、今年もそれなりの金額になった税金を見て、社長が大げさに嘆く。それだけ利益が出たのだと慰めつつ報告書を閉じ、来月の監査日を決めてしまえば、あとはなんとなく雑談の時間になる。鹿野の産休のことや、純基と自分が陸上部のなかでも同じ中距離走者だったことなど、話題は実にとりとめもない。 「体育会系って、やっぱり上下関係厳しいんですか?」 「うちはそうでもなかったですよね」 「ああ、うん」 「へえ。でも、大人になって立場が変わっても、部活の先輩って緊張しません?」 「まあ、そうですね」  しれっと頷くものだが、その顔はとても緊張しているように見えない。ただ、太く男っぽい眉も、じろりと睨みつけるような眼差しも、短い髪を無造作に上げてさらけ出した額も、あどけなさなどすっかり消えてしまったのに確かに彼のものだ。知晴は純基から目を逸らし、腕時計を一瞥すると、出されたお茶の残りを飲み干して傍らの鹿野を見た。 「そろそろ行こうか」 「あ、そうだね。社長、しばらくお会いできませんが、また戻って来ますから」 「産まれたら写真送ってよ」 「もちろん」  ここまで可愛がられるのは、間違いなく彼女の人徳だろう。玄関まで見送られ、駐車場に向かっていると、背後から声がかかる。 「先輩」  少し遅れて大股に追ってくるのは純基で、さっきも似たようなことがあったと思いながら、さっきと同じように車のキーを取り出す。 「ごめん鹿野ちゃん」  鹿野はくすくすと笑いながらキーを受け取ると、大儀そうに先に歩きだした。 「なに?」 「連絡先、教えてください」  事務所を出た瞬間、フランクだった部活時代の口調に戻ってしまったが、彼は彼で終始後輩然とした態度を崩さないのだから、それも悪い。 「名刺、渡したろ」 「そうじゃなくて、プライベートの」 「……聞いてどうすんの」 「飯行きましょう、今度」  もっとも、彼は後輩だった頃から、そう畏まるタイプではなかった。スマートフォンがずいっと差し出されるのに気圧されながら、仕方なく知晴もポケットを探る。ロック画面には徳永からのメッセージの通知がいくつか並んでおり、焦る必要もないのに思わず慌ててそれを消した。 「いつ空いてます? 今日は?」 「あー、今日は無理だな」  休日出勤に備えて今日は早めに上がろうと考えていたくらいなのに、ここでも咄嗟に嘘が口をつく。純基はあっさりと頷くと、招待用の画面をこちらに向けながら言った。 「じゃあ明日」 「明日は仕事」  カメラを向けると純基の名前とアイコンが現れ、追加ボタンを押す。 「土曜日ですよ」 「そうだよ。土曜日だってのに、仕事。お前んとこは、土曜休みなの?」  業界的に週休二日の動きはあるらしいが、現場との兼ね合いがあればそうもいかないのだろう。建設会社は土曜日も営業していることが多く、事務的なメールの返信などはよく休日に届く。 「明日は半日です」 「残りの半日、貴重な休みだろ。ほかに予定ないのかよ」 「ないです、今んとこ。じゃあ週明けは?」  また今度とか、そのうちとか、そういう社交辞令が通じないのは明白だ。知晴は内心ため息を吐きながら、やや高い位置にある純基の目をちらりと見上げた。同じくらいだった背があれからまだ伸びたらしい。何より、体つきが少年時代と比べものにならないほど逞しくなった。つい思い出にふけりそうになる知晴を、彼がまっすぐに見下ろしてくる。 「飲みじゃなくて、昼でもいいです。俺、戻って来たばっかで店よく知らないんで、うまいところ教えてください」 「……予定確認して、連絡する」 「絶対ですよ」  一瞬怯むほど大人の男の姿になったというのに、妙にむくれた声音やその口のきき方だけ、子供っぽいままなのか。 「はは、なんだよ、それ」  思わず笑ってしまった知晴に、純基はにこりともしなかった。 「それっきりだったでしょ」 「いつ?」 「卒業したっきり、です」  責めるようなトーンだった。罪悪感がそう聞こえさせるのかもしれないが、彼がおぼえていたのに驚いてもいる。 「……そうだっけ?」 「そうですよ」 「わかった、絶対、連絡する」  これから仕事で顔を合わせる相手に、そう不義理なこともできない。知晴が頷くと、純基はぱっと破顔して、拳銃のように突きつけていたスマートフォンを作業着のポケットにねじ込んだ。  黙っているとどうにも不機嫌に見えるむすっとした顔も、そういう時の真一文字に結んだ唇も変わらないし、急に笑って他人をはっとさせるのも、まるで変わらない。 「もう行くぞ」 「はい」  ぺこりと頭を下げるおざなりな仕草も、こんなに変わらない。  純基は高校時代の陸上部の後輩だった。  思春期のたった二年間など、懐かしむのにも苦労するくらい遠い思い出だ。あれから十五年経って、もうお互い三十を過ぎた。  それなのに。あの頃の制汗剤のにおいまで鼻の奥にむっと蘇るようで、堪らなくなる。  控えめに言って、初恋だった。  それは、自分にとってあまりに苦く、無邪気に懐かしむ気にはなれない――手痛い失恋の思い出でもあった。
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