プロローグ

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 小娘の手に、刃渡り15センチの包丁が握られているからだ。 「百合亜(ゆりあ)。そんなものは置け。話し合おう。話せば分かる」    だが小娘は米田の言葉など耳に入らぬ様子で髪をふり乱し、血走ったまなこを向けてくる。完全に正気を失った眼だ。  徳大寺百合亜(とくだいじゆりあ)は天賦の才に恵まれた不世出の新人オペラ歌手である。その将来性は、一部専門家から、かのマリア・カラスに比肩(ひけん)されるほどに有望視されている。  だが才能ある芸術家の常として、神経が過敏にして脆く、情緒は不安定に陥りがち。高過ぎるプライドと、思うにまかせぬ現実との狭間で折り合いをつけることができないのだ。    天才の辞書には、妥協という言葉は存在しない。ゆえに常に周囲との衝突が繰り返される。  稽古中も役の解釈や歌い方をめぐって演出家とたびたびぶつかり、ぶちギレて控え室に閉じこもることが幾度もあった。  カッとなると手がつけられないところがある。    ――マスコミにちやほやされて調子に乗っているんだ。    演出家や共演者たちは百合亜の自己中心的な振る舞いにいきどおり、稽古場の雰囲気は次第に刺々しいものになっていった。
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