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誰がために
惨めな一日が終わると、ポチは小屋の中で前足を投げ出すように這いつくばりました。首輪のあたりがひりひりと痛みます。ご主人様に首輪をきつく引っ張られたせいでした。
ご主人様とは、この家の所有者で家族の中で最年長の「おじいちゃん」のことです。ほかの犬達と同様、彼は飼い主一家の中でいちばん強い者を主人と見做していました。
ポチの住む二世帯住宅にはほかに妻の「おばあちゃん」とご主人の娘「ママ」、そしてママの息子の「坊ちゃん」が暮らしています。ママの夫である「パパ」は、単身赴任中でいません。
坊ちゃんは、仔犬に喩えるならば生後3か月くらいの可愛い盛りでした。人と犬との違いはあっても、生まれた年が一緒なので、ポチは「坊ちゃん」を自分の弟のように思っています。
ご主人様はかつて「一流企業」とやらでばりばり働いていたと聞きました。でも定年退職して10年が経つのと、妻が友達と旅行に行ってばかりで家に居つかないのとでストレスが溜まり、とても怒りっぽくなっているのです。
「浮かぬ顔だな。ポチ」
「ご先祖様! どうして小屋に」
気がつけば小屋も庭も消え失せ、周囲には岩と砂ばかりの灰色に支配された荒凉とした景色が広がっていました。どうやらここは、夢の中のようです。
「何があった」
「ぼくはどうしたらいいのでしょう」
ポチは自分の抱えた苦しみを打ち明けました。
「最近、ご主人様が横暴なのです。とくに坊ちゃんにつらく当たられて」
一日中家にいて、犬との散歩以外はとくにやることもないせいか、ご主人様はいつも苛立っています。幼い子供の声は甲高くて耳に障ると、坊ちゃんが嬉しくてはしゃげば腹を立て、泣けば怒鳴りつけるばかりでした。
「坊ちゃんは、自分のことなら懸命に堪えています。それでもご主人様が娘のママさんにまで、『お前がちゃんとしつけないからだ』と叱り飛ばすのだけはどうにも耐えられなくて」
怒りの矛先が母親に向けられると、坊ちゃんは泣き出してしまうのです。
「ぼくは今日、ご主人様を止めようとしたのです。『やめてください』と、吠えました。そしてつい、ご主人様の体を前足で突き飛ばそうとしました」
「それで罰をくらったのか」
「首輪を掴まれ、庭に放り投げられました」
白犬の「ぽち」は、長い鼻から「ふん」と息を吐きました。
「仕方なかったんです。このままだと、ご主人様が『意地悪爺』になってしまう。ぼくは怖くなって」
「情けないことだ」
「ご先祖様、ぼくはやっぱりただの雑種犬です。ご主人様を止めようとしても言葉は通じず、腕ずくでも敵いません」
「そうではない。お主がいろいろと勘違いをしておるから、情けないと言うのだ」
鼻を下に向けて嘆息すると、地面から灰色の土埃が舞いました。
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