貴女の未来と私の未来

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 次の休みに女性社員だけでお茶しないかと誘われたのは、それから一月程過ぎた頃だった。  橘さんに声をかけられると、どきりと心臓が跳ね、あの日の記憶を簡単に呼び起こす。しかしそれも徐々に、確実に、過去になっていっていた。そんな矢先のことだった。   「え、私もいいんですか…?」  私はどちらかと言えば内気で、根暗な自覚がある。女性社員は全員で八人。まさか私にまで声がかかるなんて。 「勿論。わたしの家で」 「……橘さんの家で…」  得体の知れないもやっとしたものが胸の中に現れた。しかしそれを明確に捉えてはいけないと思った私は、それを無視して愛想のいい笑みを作る。 「いいですね。喜んで」  私なんて、私なんか、そんなネガティブな感情を飲み込む。  きっと、気まぐれに戯れに触れただけの唇。そこに、ほんの一握りも理由なんて無いのだ。考える必要なんて無くて。いつまでも思い悩んでいる私の方がおかしい。きしょい。橘さんも、きっと迷惑に思うだろう。折角、こうして普通に接してくれているのに。 ーーーーなんて、思ってしまう私がいつも、どこか抜けているかもしれない。  教えて貰った住所に、時間通りに辿り着いたはずなのに、まだ誰の車も駐車されていなかった。  いや、いやいや。皆、旦那様とかに送って貰ったんだろう。そういえば、個人の家に訪ねる時は遅刻する方が礼儀だとか言う。このまま、駐車場で待っていようか…? 「浅倉さん。いらっしゃい」 「あ、どうも……」  エンジンを切るなり悩んでいたら、運転席側の窓から覗く顔があった。さらりと流れる美しい髪。眩い笑顔。橘さんは、休日も美しい。初めて見る私服に吸い寄せられるように、運転席を降りる。 「あのっ、今日は、お世話になります…!」 「わぁ! わたしここのお菓子大好きなの! わざわざありがとう!」  手土産の品を喜ばれて、もう私の仕事は完了したのではないかと胸を撫で下ろした。ミッションクリアです。帰りましょう。 「どうぞ」ーーー反して、玄関の扉が開かれる。  橘さんの家は、一階が車庫になり、三階建てだった。一階部分の天井が高めで、普通の三階建ての家よりも背が高いのではないかと思う。モダンな外装は、やはり周りの家からも一目置かれているような、そんな雰囲気がする。 「お邪魔します」ーーー敷居を跨ぐ。招かれた先は背の高い玄関。二階へ向かうには螺旋階段を上るようだ。いちいち、ほんと、お洒落。オーダーメイド。誰の発想だったんだろう。「螺旋階段、平気? 旦那がさ、『どうしても螺旋階段!』なんて譲らなくて」……旦那さんの発想らしい。  確かに、お洒落だけどモダンな雰囲気は橘さんのイメージから離れているような気がする。彼女はもっと、カフェみたいな。木目が目立つような、そんな、暖かい感じの家とかが似合いそう。 「一番乗りですか?」  リビングに案内されて、そこに誰の姿も無いことに緊張した。 「あー…うん」  切れの悪い返答。目が少し泳いでいる。まさか、なんて思ったけど、その考えを「そんなまさか」で塗り潰した。まさか、私しか誘っていないなんて、そんなこと、無いよね…? 「紅茶とコーヒー、どっちがいい?」 「あ、お構い無く…」 「じゃ、私、紅茶飲むから紅茶でもいい? 苦手じゃない?」 「好きです。ありがとうございます」  進められたそわそわと落ち着かず辺りを見回す。広くて綺麗なお家。窓が大きくて明るい。ドラマの中でしか観たことがないけど、都会のオフィスみたいだなと思った。  テレビも大きい。私は何インチだとか詳しくはないけど、我が家にある、滅茶苦茶小さいテレビが六個分はゆうにあるのでは?という大きさ。こんなテレビで映画とか観たら、もう、映画館なんて行く必要が無いんじゃないの?家の方が快適だし。  全てを持って、私と別世界のニンゲンなんだなぁと思う。あの一件以来、意外と手の届くところにいたのかなぁと思った日もあったが、やはりこちらが現実のようだ。  綺麗な女性。既婚者。注文住宅。……しかも、三階建て。お家に遊びに行ったら、ティーカップに紅茶が出てくる。(うちはまず間違えなく緑茶を出す)。 「どうぞ」 「あっ、ありがとうございます…!」  進められた花柄のティーカップ。添えられたスティックシュガーにミルク。作法はあっただろうか。確か、ティースプーンを置く場所とか、何かしらあったはず……。  恐縮しっぱなしの私に、橘さんは花が綻ぶようにして笑った。 「そんなに緊張しなくても。取って食べたりしないから」  花が綻ぶなんて、可憐なものじゃなかった。どこか妖艶に、彼女はグロスの光る口元に弧を描く。ますます、手のひらに汗をかいた。甦る記憶にいつも、顔が熱くなる。  しかし、私の若干淫らな妄想に反して、その後は何の変哲もない、当たり障りの無い話をするだけだった。橘さんは話し上手な上に聞き上手で、口下手な私もいつの間にか楽しくお喋りを興じていて、紅茶のおかわりは三杯目だった。時計をわざわざ確認しないけれど、もう三時間くらい経っているのではないだろうか? 「あの、そろそろ……。晩御飯の準備とか、ありますよね?」  こういう時の適切な言葉がいつも思い付かず、「行く前に勉強しとけば良かった!」と思うのに、帰宅したら忘れてしまう。それで、いつも後悔をループしてしまうのだ。こんな台詞を溢しても、逆に相手に気を遣われて「時間なんて気にしないで」と言われてしまえば、なんと返していいかわからない。 「うち、旦那が単身赴任なんだよね。いつも一人なの。良かったら、晩御飯、一緒に食べない?」 「………え?」  この返しは恐らく、予習をして臨んでいたとしても、きっと例文に上がっていなかったことだろう。  なんと言葉を紡ぐべきか考える。 「……というか、是非、食べていって?」  不安げに揺れる、そんな瞳をして覗き込まれたら、もう答えなんて一択では無いか。美人ってズルい。 「……今日、私以外の方は、本当に誘ったんですか……?」 「……誘ってない」  話していると楽しくて。皆、もっと遅れてこないかなぁと思っていたけれど。全然誰も来る気配を見せず時間が経っていくので、「私にしか声をかけていないのかも知れない」という考えはほぼほぼ確信に変わっていた。 「もっと、浅倉さんとお喋りしたくて……。あんなことがあったし、『二人だけ』って言うと警戒されるかと思って……」 ………『あんなこと』。  またも鮮明に思い起こされる記憶。甘い香り。柔らかい唇。ぼっと顔から火が出ると、橘さんは目を丸めた後に、ふふと笑った。 「可愛い。意識してくれてるんだ」  そりゃあ、誰だって、突然口付けなんてされたらーーーそんな抗議の声をあげようと思った矢先、また至近距離からふわりと甘い香りがして、何が起こったのかわからないまま、あの日のように柔らかいものが私の唇に触れていた。  あ、と。  声も出せない。その口付けは、徐々に深いものに変わる。 ………ああ、いけない、溺れてしまう……。  心の中の自分が警告音を鳴らしながら叫ぶ。それはいけない、それは、底無し沼だ。死の沼だと。幸せになる未来なんて無いのだと。  ーーーーー…でも。  執拗に絡めてくる舌先だとか、息継ぎの合間すら勿体無いと思っているような、そんな、貪るような彼女のキスが。私の心を、打った。  否、やっぱり、「呑まれた」というのが正しいのかも知れない。  未来なんて、もう、どうでもいいか。なんて。浅はかに、そう思った。くらくらとし出した頭に、正常な判断なんて求めてはいけない。  覆い被さらんとする彼女の華奢な身体に、私はつい、腕を回してしまったのだった。
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