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「橘さん」
「うん」
電話をかける、と言う私達の間では珍しい手段を取った理由を、きっと彼女はよく知っていた。いつもとは違う、どこか暗く、抑揚の無い声のトーン。
「聞きました。ご懐妊、おめでとうございます」
「うん」
うん、としか言わない彼女に、私はやっと苛立った。「何それ」とか「どう言うこと」とか、「私って貴女にとって何だったの」とか、そういう、彼女を責める言葉がどっと押し寄せてきた。
「………もう、この関係はやめましょう」
「……」
一番肝心なところで、彼女は「うん」と言わなかった。
苛立ちのままに浮かんだ全ての言葉をやっと飲み込んで、折角、理性的に紡いだのに。彼女は何も言わない。耳に当てたスマホからは、ただ、人の気配だけがする。
「……………」
「……………」
「……………」
「………………ごめんね、」
暫く何も紡がず、同じように無言でいればやがて、絞り出すように小さな声が聞こえた。
その、頼り無く震える声に。泣きそうな、或いはもう泣いているかもしれない、その掠れた呟きに。ぶわっと。再び溢れた様々な想いや言葉を、もう一度、時間をかけて飲み込む。
「謝らないで下さい。赤ちゃんに、聞こえますよ」
最終的に口から溢れた言葉は、的確に彼女の心を突き刺してしまったかもしれない。でも、罵倒でも分かりやすく責めるような言葉でもなかったことを、きっと神様は褒めてくれるだろうと思った。
「今まで、ありがとうございました。どうか、お幸せに」
嫌みのつもりではない。他人行儀な挨拶をして、電話を切った。その後すぐに、アドレス帳から連絡先を削除した。今までのLINEのやりとりも漏れなく消去し、ブロックもした。
彼女には告げなかったが、会社は辞めてきた。突然のことに目を丸めた上司も、「実家のことで…」と暗い顔をすればそれ以上のことは何も聞いてこなかった。今後、必要な手続きは電話と書類の郵送などでやりとりをすることになった為、文字通り、もう二度と、会社に行くことはない。
「衝動的過ぎる」と、もし笑う人がいるならば、その人はきっと、本当の恋を知らないのだ。或いは、私とは価値観が違い過ぎる。
今まであったことを、まるで何もなかったかのように、平然な顔をして過ごすことが出来ない。不器用な人間だとは、我ながら思う。
生まれてくる命を、心から祝ってあげることが出来ないかもしれない。
毎日のように付き合わす彼女の顔を見ていると、やがて憎しみが生まれ、それに満たされながら、心を殺して生きていくかもしれない。
そんなのは、嫌だと思った。
結局、彼女は世間一般的に言う『幸せな家庭像』を捨てきれず、それに紛れて生きていくことを選んだ。ただ、それだけ。
『母になる』と言う経験を、私では与えられなかったと思えば、無理矢理納得出来ないことも無さそうだ…。否、まだ難しい。
きっと本当に辛い時、人の体はほんの少しだけ鈍感になれるように出来ているのだと思う。
遅れてやってきた涙を、力強く拭う。
「貴女の選び取ったものと、私が望むものが噛み合わなかっただけ」
敢えて、声に出す。
私以外、誰もいない部屋の空気を震わせる。自分に言い聞かす。そもそも、始まり方から考えても、私達が幸せになる未来なんて何処にも用意されていなかったのだ。わかっていた。わからないふりをすることに慣れてきた矢先の出来事だった。
貴女が嘘と偽りの中に隠してきた本当の心を、私は確かに受け取った。辿り着いた未来に本当に幸せはなかったと、彼女は言った。彼女を待ち受けていた未来は、ただの空虚だったらしい。それはきっと、嘘ではなかった。
でも、まだ、最終地点ではない。
どうやら私は、とんだお人好しでもあるらしく、こんな時にもやっぱり、彼女のことを想った。可哀想な人だと思った。幸せにしてあげられなかった、と思った。
せめて、もう、交じり合うことの無くなってしまったその未来の先に、彼女の『本当の幸せ』がありますように。
だって、新しい命が宿ったのだ。
どうかどうか、と。自分の未来だって未確定で、仕事だってこれから探さなくてはいけなくて、私の方がわりと色々とピンチなはずなのに、願った。
『不倫』と言う名のこの恋が。その結末に、私を待っていたものは全くハッピーエンドではなかったけれど。
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