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1.アシュリー・ソトマイヤーの怒り
助走路を駆けたアシュリーは、大きな声を上げて、7フィートもある槍を投擲した。
アトランタの抜けるような青空をバックに、理想的な弧を描いているように見える。もう一伸びすればいい。今日は、この記録で満足しちゃいたいから。
願いもむなしく、なぜか飛距離は伸びず、急に失速して、槍は、地面に刺さった。
(今日は、いい記録が出る気がしない。なんだか、力が入らないよ)
アシュリーには、その原因がわかっていた。寮の同部屋で暮らすレイシアが大学を休んだのだ。当然、この陸上クラブにも出てきていない。体調の良くないレイシアを部屋に一人、置いてきたことが気がかりだった。
レイシアは、アスリート科の特待生で、大学の講義では科学的な運動学を学び、陸上クラブでは、中長距離ランナーとして活躍している。この夏の大会では、ジョージア州の代表となり、次のオリンピック候補としても名前の挙がる、花形選手だった。
「あと、トラック二周な。がんばれよー」
今やレイシアの専属コーチのようになったグレッグが退屈そうに、他のランナーの指導に当たっていた。魚が死んだような目をしている。レイシアの才能がずば抜けていただけに、物足りないのだろうが、あまりにあからさまじゃないか。
(ただ、走らせるだけなんて。あれじゃ、ランナーが可愛そうだわ)
グレッグがこれまでに何人ものオリンピアを育てた名コーチであることは事実なんだろうけど。
アシュリーの通うジョージア州立のヴァンデルモンド大学は、全米でも屈指の伝統を誇り、世界レベルの研究大学としてだけではなく、スポーツ強豪校としても有名だった。
アシュリーがタオルで槍を拭いていると、グレッグが近づいてきた。
「アシュリー、キミはレイシアのルームメイトだったよな。今日、レイシアはどうした? なぜ、練習に来ないんだ?」
グレッグは、ヒゲづらで、濃い顔の三十過ぎの男である。元教え子と結婚して、子供もいると聞く。
アシュリーは、グレッグのことがあまり好きでは無かった。それはむさ苦しい見た目が主な理由だが、レイシアに近すぎるのもいけ好かない。
「レイシアは、体調が悪いと言ってたわ。いつもは朝からハイテンションなのに、今日は起きてこなかったから、起こしにいったら、けだるそうな顔をしてた。まるで、病人のように」
「本戦前に、あいつは何をやってるんだ。体調管理もアスリートの仕事だと、これまで口酸っぱく言ってきたのに」
トラックを周っていたランナーが続々とゴールしている。地面に倒れ込む選手たちは、皆一様にこちらを窺っている。グレッグは、気付いているはずなのに、ここから動こうとする気配がない。
「そういえば、アシュリー。きみ、ふくらはぎが張ってないかい? さっきは、筋がほぐれてないように見えたぞ。よかったら、練習後、マッサージをしてあげようか?」
「いえ、結構です。自分でケアするルーティンがありますんで」
アシュリーは丁重に断る。別に、ふくらはぎに違和感はない。
全米から学生の集まるヴァンデルモンド大学の寮は、数年前に建て替えられたばかりで、まだ新築の匂いがした。有名なIT企業のオフィスのように開放的で、洗練されたデザインのロビーを抜け、アシュリーはエレベーターに乗り、シェアルームのある7Fを押した。
(レイシア、大丈夫だったかしら)
部屋に帰ると、レイシアはソファに寝転がり、洗面器を抱えていた。洗面器には大量の嘔吐物が入っている。
「どうしたの、レイシア!? 大丈夫?」
「あぁ……アシュリー、おかえり。私は大丈夫よ。吐いたら、すっきりしたから。汚いもの見せちゃってゴメンね」
レイシアはのっそりと起き上がり、汚物をポリ袋に捨てる。眉間にしわを寄せ、全然スッキリした顔をしていない。
「嘘つかないで。ちっとも、元気が無いじゃない。朝から何か食べたの?」
レイシアは首を横に振った。
いつも男の子のように活発で、明るいレイシアなのに、今は見る影もない。
アシュリーは自分の前髪を上げて、レイシアとおでこを合わせる。熱はなさそうだけど……ということは……。
アシュリーは、レイシアの症状に心当たりがあり、暗い気持ちになった。
「ねぇ、レイシア、それ、つわりじゃないの?」
低いトーンの声が、アシュリーのやるせない気持ちを乗せて、床を這うようにリビングに広がる。
本当につわりだとしたら、レイシアには、心当たりがあるはずである。だとしたら、それは、アシュリーに対しての裏切り行為以外の何ものでもない。即刻、釈明をしてほしい。してもらわないと……。
問い詰めるような言葉がつい口をついて出そうになった時、レイシアがしくしくと泣き出した。
ブロンドのサラサラしたショートボブから見え隠れする目鼻立ちは、雑誌のモデルのように美しい。頬が濡れ、唇も濡れて光っている。
(聞かないでおこう)と、アシュリーは気持ちを落ち着かせ、レイシアの横に座り、頭を撫でてやった。
「レイシア大丈夫? お医者さんに行かなくてもいいの?」
レイシアは、その質問に答えることなく、アシュリーのブラウスのボタンに手をかけ、外し始める。
唇を重ねられたアシュリーは、レイシアをやさしくソファに倒した。
レイシアを脱がせると、よく引き締まった筋肉が必要な部分にだけついている。腹回りに無駄な贅肉はもちろん無いが、スレンダーボディとは不釣り合いな豊満な乳房が露出すると、鍛えられることなく残されたその女性の象徴が、アシュリーの欲情を強く刺激した。
アシュリーもアスリートではあったが、競技種目でこれほど体の肉付きが変わってくるものかという食指が動き、レイシアの体を舐めるように調べる。
アシュリーの上腕は筋肉を纏って太く、節くれだった無骨な手をしていたが、レイシアに嫌われないように、そっと、やさしく愛撫した。
確かめ合うように抱き合って、ひとしきり体を温め合った後、レイシアが言った。
「グレッグにレイプされたの。マッサージだと言って、倉庫に連れて行かれて」
腕の中にいるレイシアの瞳から、涙が溢れていた。
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