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ハートビート法を巡る裁判の傍聴を終えた後、アシュリーは、イタリア式のコーヒーが楽しめるシアトル系コーヒー店にマイケルと一緒に入った。
「どうだった、アシュリー? 初めての、裁判の傍聴は」
「そうね、結構、考えさせられるわよね……」
「そうだよね、刑事裁判ならわかりやすいけど、州法が合憲か違憲なのか、って裁きは、なかなか難しいよね。レポート書くのに、少しは参考になった?」
マイケルは、トールのフラペチーノにのっている生クリームをストローですくってねぶる。
「普通に聴いてると、やっぱり、原告側の主張が正しくて、そちらを応援したくなっちゃうわよねぇ」
「アシュリー、どちらかに偏った目で見るのは危険だよ。レポートにもそういう偏見が出ちゃうかもしれない。こういうのは、公平性を持って聴かないといけない。そういう練習をしないと」
「どういう意味よ? 別に、個人的な意見は持ったって、いいんじゃないの?」
「普段ならね。でも、今回の課題は、単純に、法律の妥当性、正当性を考察するものだから、中立の立場で考えないといけないよ。アシュリーが将来弁護士になった時、どちら側から依頼がくるかわかんないんだから。そのための課題だと思うし」
「そうなのかなぁ……」
「今日の裁判では、確かに原告側の主張の方が経験に基づいてるし、インパクトもあったけど、被告側の主張だって、筋が通っていたと思うよ」
「どれのこと? 緊急避妊薬の普及とか、性教育を充実させるって話?」
「そう、それ。その効果が出て、全米で中絶率が下がっているのは、確かなことみたいだし」
「いや、マイケル、それは違うと思うわ。それはCOVID―19のワクチンを作って予防はするけど、感染しちゃった人のことは知らないって言っていることと同じだよ」
「え? そ、そうかな……?」
「そうよ。実際に、望まない妊娠をしちゃった人への配慮が足りないよ。そうなってしまった女性に、寄り添っていない」
「でも、被告側の州政府としては、望まない妊娠をしないように、手を尽くしているわけだから、それでもそうなっちゃうってことは、自己責任というか、自業自得と言うか……」
「ひっどーい! マイケルも、そんな考えを持っていたのね! その辺にいる他の男たちと同じね!」
「だって、そうじゃないか? 中絶できない法律があることは分かってるんだから、ちゃんと、後悔しないような対策を事前にしておかないと。後先考えずに、性行為をしちゃうから、そんなことになるんだろ?」
「マイケル、マジで言ってる? それ以上言うと、殴るよ」
アシュリーは、凄味を利かした声で言った。これ以上言うなら、本気で殴るつもりだった。
マイケルは、目が泳ぎ、落ち着きが無くなった。
「女の子には、防げないことの方が多いんだよ。男は無責任よね。後のことも、その後の未来のことも、まるで考えずに行為に励むんだから。それで、女の子が妊娠したって、知らないっていうか、堕胎せっていうんでしょ、どうせ。勝手じゃない? その上、法律で堕胎せないってことになってるんだから、男が二律背反なことを知ってて作った法律じゃないの? 性差別が、多分に入っていると思うわ、ハートビート法は」
「ア、アシュリー……」
「マイケル、あなたは襲われたって、妊娠することは無いじゃない。コンドームをつけ忘れることだって、あなたは、女の子ほど重大なインシデントだとは思ってないはずだわ。男は、わかってないのよ……きっと、一生、わからないんじゃないのかしら……」
アシュリーは、涙を流してしまった。こんなところをマイケルに見せたくは無かったが、過去を思い出してしまって、つい、熱くなってしまっていた。
アシュリーは、部屋に戻ってノートパソコンを開いて、ハートビート法に関するレポートを作っていた。
なるべく公平性を保とうと意識しながら作業をするが、気付くと、中絶する権利を認めるべきだという論調に寄っていってしまう。
手を止める。
(どうしよう……。最後に修正するとして、いったん、思ったままに作ってみるか……)
アシュリーの手が再び動き出した。まずは思ったままで書いてみようと割り切ると、作業は加速した。
『合法的な人工妊娠中絶は、女性たちが自らの人生を設計するための重要な選択肢の一つである。それは、1973年の『ロー対ウェイド判決』によって、女性の権利として認められた。
その選択肢を否定するハートビート法が出来た背景には、アメリカの根強い性差別がある。胎児の権利を振りかざし、男性には何の責任も課さず、女性だけに刑罰を与えるのは明らかにおかしい』
キーを叩くにつれアシュリーは熱くなり、昼間にマイケルにがなり立てたように、男への嫌悪感が増幅していった。
アシュリーは、(後から整えればいいんだから)と、どんどん書く内容が尖ってきて、文章も過激なものになった。そして、自分の高校時代の経験も赤裸々に書き込むに至って、ハートビート法を打破せよとの結論に達する。
それでも、気持ちは収まらず、ついに法律から脱線して、”男”の悪口を打ち込んでいた時、ガチャリと玄関の鍵が解錠いた。
「アシュリー! ただいま!」
リュックを背負ったレイシアが、両手を広げて入ってきた。レイシアは笑みが溢れ、明るさを取り戻しているようだ。
「レイシア! 帰って来たのね、おかえり。早かったね。どうだった? ちゃんと上手くいった?」
「うん、大丈夫。ピルで、堕胎すことができたわ。明日から、陸上クラブにも、復帰するね」
「そうなの、よかった。でも、明日からって、急ぎすぎなんじゃない? あまり、無理しないでね」
「ううん。大丈夫よ、すっかり元気になったし。全米大会も近いから、これ以上休んじゃうと、グレッグに雷を落とされちゃうわ」
「それは無いんじゃない? だって、こうなった原因は、そもそもグレッグだったんだから」
「それもそうね。グレッグには、『あなたのせいで練習が出来なくてどうしてくれるの』って明日、言ってやるわ」
「そうよ、そうよ。それで、二、三発殴ってやればいいのよ」
「確かに、そうね。力いっぱい殴ってやろうかしら」
レイシアはすっかり元気になっていた。リュックを下ろすなり、アシュリーに抱きついてきた。
シャツの下に手を入れてくるので、アシュリーは、レイシアの服を脱がし、ソファに連れて行く。
レイシアをソファにそっと押し倒しながら、アシュリーは左手を伸ばし、編集途中のノートパソコンを閉じた。
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