3.アシュリー・ソトマイヤーの誤算

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 二か月後――11月。大学構内の広葉樹はすっかり色づいていた。  アシュリーは、槍の手入れをしながら、ランニングをするレイシアを目で追った。本人は、調子は悪くないと言っていたが、ずっと、レイシアの走る姿を見てきたアシュリーには、微妙に姿勢が違っていることがわかる。きっと、コーチのグレッグも気付いているはずだが、結果を残せているので、あえて矯正しようとはしていないのだろう。  レイシアは先月行われた全米大会で、5000m走に出場し、3位入賞を果たしていた。大学の広報で大きく取り上げられただけでなく、オリンピアの卵として、地元テレビ局の取材も受けている。  レイシアは、昔よりも前のめりの姿勢で、足の蹴り出しも重そうに見える。ストライドがやや大きくなったのは、それらによる失速を補うためだろうか。  アシュリーは立ち上がり、助走路で槍を構えた。目を閉じて、神経を集中させる。 「おいっ! どうした、レイシア? 大丈夫か!?」  グレッグの声に、アシュリーは集中力が途切れ、声がした方を向く。  トラックのコーナーに入る所で、レイシアがお腹を押さえて倒れていた。  レイシアをグレッグの車に乗せ、アシュリーも同乗して、大学病院に着いた。  グレッグをロビーで待たせ、アシュリーはレイシアを支えて、診察室に入る。 「妊娠しているね。だから、腹痛が起きたんだよ。自覚はあったのかい?」  医師の診断にアシュリーは驚いてレイシアを見たが、レイシアは伏し目がちに何も答えない。 「どちらにせよ、赤ちゃんも、お母さんも、大丈夫なのか、ちゃんと調べないといけない。産婦人科に回ってくれるかな」  アシュリーがレイシアを連れて産婦人科に移動すると、レイシアは、妊娠十八週だと診断された。  あの時、堕胎(おろ)したと聞いていたが、そうでは無かった。なぜ、レイシアは嘘をついたのか。もしや、産もうとしていたのだろうか。 「お付き添いの方は、外で待っていてもらえる? 今から、胎児と母体の精密検査をするから」  アシュリーは、レイシアの妊娠が継続していた理由がわからず、モヤモヤしたまま、ロビーに出た。  心配そうな顔をしたグレッグが、手を挙げて呼んでいる。 「アシュリー、どうだった? レイシアは、大丈夫そうかい?」 「ううん。まだわかんない。今、胎児と母体の精密検査をやっているわ」 「胎児と母体?」 「そう。レイシアは、妊娠していたみたい」 「“まだ”って、どういうことだ? いつから妊娠してたんだ!?」  アシュリーは、グレッグを尻目で見た。この男は、とぼけているのか? それとも、本当に、何も知らないのか? 「グレッグコーチは、知らないの? レイシアは、二カ月前に人工中絶するためにフロリダに帰っていたでしょ?」 「二か月前……。体調不良と言って、一週間ほど休んでた時かい?」 「そうよ。そんなことも知らないってことは、レイシアのお腹の子が誰の子かも、分かってないんじゃないの?」 「えっ? な、何を言い出すんだ……」  グレッグの視線が床を彷徨う。記憶を手繰りよせて、自らが犯した罪を確かめているのだろう。 「グレッグ、前にも言ったけど、なんて、無責任なの? レイシアは、今、肉体的にも、精神的にも、すごく苦しんでいるのよ。これでも、まだ、自分のしたことを反省していないの?」 「ま……まあ、そうか……。教え子に手をだしちゃ、いけないよな……。しかも、オリンピックを目指している現役の選手に……」 「な、何て、甘っちょろい反省なの? それだけしか、反省しないの!? レイシアを騙してレイプするなんて、立派な犯罪よ!」 「なんだって? オレがレイシアをレイプしたって!? 誰がそんなことを言ってるんだ? オレはレイプなんてしていない!」 「嘘よ! 実際、レイシアは、妊娠しちゃってるじゃない? あなたの子なんでしょ? まだまだ、練習して、大会で結果も残していこうという時に、なんてことするのよ!」 「妊娠させてしまったことは、悪いと思っている。でも、レイプは、いいがかりだ。合意の上だよ」  アシュリーは、混乱した。レイシアから聞いていたことと違う。 「どういうこと? 何があったのか教えて?」  グレッグは、神妙な面持ちで、当時の経緯(いきさつ)を話し始めた。 ――その日、州代表に選ばれたお祝いに、グレッグはレイシアを食事に誘っていた。  レイシアは、生まれて初めてワインを飲んだらしく、頬を赤らめ、上機嫌になっていた。  グレッグは、食事を心底楽しんでいるレイシアを見ると、嬉しくなって調子に乗り、もう一本、レイシアの生まれた年のワインを頼んだ。  グレッグもそれほどお酒は強い方では無かったが、会話が弾み、勢い余って飲み過ぎてしまった。  店を出た時、腕を組んできたのは、レイシアの方からだった。  グレッグの車が停めてある駐車場まで、恋人同士のように歩いた。グレッグは、レイシアを寮まで送り届けるつもりだったが、車に乗り込むと自然の成り行きで、キスをした。そして酔い過ぎている二人は、休憩も兼ねて、モーテルに入った――  アシュリーは、顔をしかめて聴いていた。聞くに堪えなかった。  その場にいたわけではないので、はっきりとは分からないが、レイシアの方から誘ったというようにも聞き取れる。  レイシアはレイプされたと嘘をついたが、それは、アシュリーに対して、やましい気持ちがあったんだと考えると、辻褄が合う。  では、わざわざフロリダまで行ったのに、中絶もせずに帰って来たのはなぜ?  しかも、あの時、レイシアは中絶してきたと、アシュリーに報告している。あれも嘘だったのだろうか。お金を借りてまで行ったので、本当のことが言えなかったということだけだろうか。  レイシアは、本気で産もうと考えたのだろうか?  そうすれば、陸上選手としての人生も、大学生活も終わると分かっていたのに?  レイシアにそう思わせたもの……惑わせたものは何?  ひょっとして、グレッグへの愛?  そんなことはないよね。ううん、そんなことは絶対ない。グレッグとの一夜は、酔ってしまったがゆえの、過ちだったに違いないのだから。  だって、グレッグは男だし、妻子もいるし、ありえないよ。  ひょっとして、レイシアとアシュリー、二人の将来のことを考えて、家庭に子供が欲しいとでも考えたの? 嘘でしょ? それなら……そうだとしても、何も、今すぐじゃなくても、そんなに急ぐ必要もないのに。  アシュリーは、怒りの矛先をどこに向けたらいいのか、分からなくなった。
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