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二か月後――11月。大学構内の広葉樹はすっかり色づいていた。
アシュリーは、槍の手入れをしながら、ランニングをするレイシアを目で追った。本人は、調子は悪くないと言っていたが、ずっと、レイシアの走る姿を見てきたアシュリーには、微妙に姿勢が違っていることがわかる。きっと、コーチのグレッグも気付いているはずだが、結果を残せているので、あえて矯正しようとはしていないのだろう。
レイシアは先月行われた全米大会で、5000m走に出場し、3位入賞を果たしていた。大学の広報で大きく取り上げられただけでなく、オリンピアの卵として、地元テレビ局の取材も受けている。
レイシアは、昔よりも前のめりの姿勢で、足の蹴り出しも重そうに見える。ストライドがやや大きくなったのは、それらによる失速を補うためだろうか。
アシュリーは立ち上がり、助走路で槍を構えた。目を閉じて、神経を集中させる。
「おいっ! どうした、レイシア? 大丈夫か!?」
グレッグの声に、アシュリーは集中力が途切れ、声がした方を向く。
トラックのコーナーに入る所で、レイシアがお腹を押さえて倒れていた。
レイシアをグレッグの車に乗せ、アシュリーも同乗して、大学病院に着いた。
グレッグをロビーで待たせ、アシュリーはレイシアを支えて、診察室に入る。
「妊娠しているね。だから、腹痛が起きたんだよ。自覚はあったのかい?」
医師の診断にアシュリーは驚いてレイシアを見たが、レイシアは伏し目がちに何も答えない。
「どちらにせよ、赤ちゃんも、お母さんも、大丈夫なのか、ちゃんと調べないといけない。産婦人科に回ってくれるかな」
アシュリーがレイシアを連れて産婦人科に移動すると、レイシアは、妊娠十八週だと診断された。
あの時、堕胎したと聞いていたが、そうでは無かった。なぜ、レイシアは嘘をついたのか。もしや、産もうとしていたのだろうか。
「お付き添いの方は、外で待っていてもらえる? 今から、胎児と母体の精密検査をするから」
アシュリーは、レイシアの妊娠が継続していた理由がわからず、モヤモヤしたまま、ロビーに出た。
心配そうな顔をしたグレッグが、手を挙げて呼んでいる。
「アシュリー、どうだった? レイシアは、大丈夫そうかい?」
「ううん。まだわかんない。今、胎児と母体の精密検査をやっているわ」
「胎児と母体?」
「そう。レイシアは、まだ妊娠していたみたい」
「“まだ”って、どういうことだ? いつから妊娠してたんだ!?」
アシュリーは、グレッグを尻目で見た。この男は、とぼけているのか? それとも、本当に、何も知らないのか?
「グレッグコーチは、知らないの? レイシアは、二カ月前に人工中絶するためにフロリダに帰っていたでしょ?」
「二か月前……。体調不良と言って、一週間ほど休んでた時かい?」
「そうよ。そんなことも知らないってことは、レイシアのお腹の子が誰の子かも、分かってないんじゃないの?」
「えっ? な、何を言い出すんだ……」
グレッグの視線が床を彷徨う。記憶を手繰りよせて、自らが犯した罪を確かめているのだろう。
「グレッグ、前にも言ったけど、なんて、無責任なの? レイシアは、今、肉体的にも、精神的にも、すごく苦しんでいるのよ。これでも、まだ、自分のしたことを反省していないの?」
「ま……まあ、そうか……。教え子に手をだしちゃ、いけないよな……。しかも、オリンピックを目指している現役の選手に……」
「な、何て、甘っちょろい反省なの? それだけしか、反省しないの!? レイシアを騙してレイプするなんて、立派な犯罪よ!」
「なんだって? オレがレイシアをレイプしたって!? 誰がそんなことを言ってるんだ? オレはレイプなんてしていない!」
「嘘よ! 実際、レイシアは、妊娠しちゃってるじゃない? あなたの子なんでしょ? まだまだ、練習して、大会で結果も残していこうという時に、なんてことするのよ!」
「妊娠させてしまったことは、悪いと思っている。でも、レイプは、いいがかりだ。合意の上だよ」
アシュリーは、混乱した。レイシアから聞いていたことと違う。
「どういうこと? 何があったのか教えて?」
グレッグは、神妙な面持ちで、当時の経緯を話し始めた。
――その日、州代表に選ばれたお祝いに、グレッグはレイシアを食事に誘っていた。
レイシアは、生まれて初めてワインを飲んだらしく、頬を赤らめ、上機嫌になっていた。
グレッグは、食事を心底楽しんでいるレイシアを見ると、嬉しくなって調子に乗り、もう一本、レイシアの生まれた年のワインを頼んだ。
グレッグもそれほどお酒は強い方では無かったが、会話が弾み、勢い余って飲み過ぎてしまった。
店を出た時、腕を組んできたのは、レイシアの方からだった。
グレッグの車が停めてある駐車場まで、恋人同士のように歩いた。グレッグは、レイシアを寮まで送り届けるつもりだったが、車に乗り込むと自然の成り行きで、キスをした。そして酔い過ぎている二人は、休憩も兼ねて、モーテルに入った――
アシュリーは、顔をしかめて聴いていた。聞くに堪えなかった。
その場にいたわけではないので、はっきりとは分からないが、レイシアの方から誘ったというようにも聞き取れる。
レイシアはレイプされたと嘘をついたが、それは、アシュリーに対して、やましい気持ちがあったんだと考えると、辻褄が合う。
では、わざわざフロリダまで行ったのに、中絶もせずに帰って来たのはなぜ?
しかも、あの時、レイシアは中絶してきたと、アシュリーに報告している。あれも嘘だったのだろうか。お金を借りてまで行ったので、本当のことが言えなかったということだけだろうか。
レイシアは、本気で産もうと考えたのだろうか?
そうすれば、陸上選手としての人生も、大学生活も終わると分かっていたのに?
レイシアにそう思わせたもの……惑わせたものは何?
ひょっとして、グレッグへの愛?
そんなことはないよね。ううん、そんなことは絶対ない。グレッグとの一夜は、酔ってしまったがゆえの、過ちだったに違いないのだから。
だって、グレッグは男だし、妻子もいるし、ありえないよ。
ひょっとして、レイシアとアシュリー、二人の将来のことを考えて、家庭に子供が欲しいとでも考えたの? 嘘でしょ? それなら……そうだとしても、何も、今すぐじゃなくても、そんなに急ぐ必要もないのに。
アシュリーは、怒りの矛先をどこに向けたらいいのか、分からなくなった。
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