3人が本棚に入れています
本棚に追加
4.レイシア・バーハムの決断
レイシアの腹痛はいつの間にか治まっていた。
大学病院の医師が検査した結果は、母体も胎児も問題なしとのことだった。
レイシアの心境は複雑だった。
出産か中絶か。どちらの決断も出来ないまま、今日まで来たのだ。堕胎できていないことは、とっくに気付いていた。タラハシーの実家から戻った後も生理がこなかったし、お腹も少し膨らんできたから。
自分では決められないので、最後は、神様に決めてもらおうと、普段通りの生活を続けていた。
お腹の子が育とうが、流れようが、それが運命だったのだと受け入れようとしていた。
だから、今、胎児も元気だと聞かされて、幾分かがっかりしたのには、自分でも驚いた。やはり、心の奥底では、赤ん坊を産んでも育てられないし、幸せになれないという思いの方が強かったのだ。
「よかったわね、流産してなくて。あなた、妊娠してるんだから、あまり無理しちゃだめよ。お腹が張るときは、安静にしてなさい。いい? わかった?」
最後に、医師にそう注意されて、レイシアは診察室を出た。
ここの医師は、レイシアが中絶するなんて発想はなさそうだった。当然のように、出産することを前提にしたアドバイスや助言をくれた。
(ジョージア州には、中絶は罪とされる法律があるんだから、当然といえば当然か……)
レイシアがロビーに戻ると、待ち構えていたアシュリーに手を引かれ、壁際に連れて行かれた。
アシュリーは興奮しているようで、語気を強めて話しているが、あまり、耳に入って来ない。
ようするに、レズビアンの二人が、この後続くのなら、子供を持てるチャンスはいくらでもある。早まることをしてはいけない。養子でもいいし、精子を提供してもらってどちらかが産んでもいいということを、色んな人の前例を挙げながら、こんこんと言い聞かせようとしてきている。
(違うの、アシュリー。私は、レズビアンでもあるけど、グレッグのことも好きなの。もしかしたら、バイセクシャルなのかもしれない……グレッグの子供を産みたいって思うこともあるの……)
アシュリーには口が裂けても言えないことを思いながらも、どう言い訳しようか返答に困っているとアシュリーが続けた。
「産んだ後のことを真剣に想像してよ。浅はかな考えで、人生を棒に振っちゃダメよ。絶対後悔するんだからね。私は、レイシアに陸上クラブも、大学も辞めて欲しくないから……レイシアに幸せな人生を送ってほしいから言ってるんだよ。ね? お願いだから、レイシアは自分の人生を大切にして」
「アシュリーありがとう、心配してくれて。そうだよね。普通に考えたら、この子は堕胎すべきなのよね……。それは、わかってるつもりだったんだけど……」
「じゃあ、どうして? どうして、タラハシーの実家に帰った時に、中絶してこなかったの!?」
「そ、それは……」
はっきりとした理由を答えられなかった。中絶しようとはしていたのに、色んな事情が絡んできて、結果として、運を天に任せる形にしてしまっていた。
――デイビスと一つ屋根の下で過ごすのを避けたのが、そもそもの発端であるのは間違いない。その後、産婦人科医に通うための宿代が無かったこともある。帰省中、ママが赤ちゃんを出産するところに立ち合ったことも心理的には影響が大きかった。
産んだと仮定して、その後のことは、繰り返し、考えた。
アスリートとして選手生命が絶たれ、大学を退学し、パートナーもいない中、孤独な出産をして、一人で我が子を育てる……。
お金が無いのは、どうしたら工面できるの? 二度とこない青春を、そんな形で終えていいの? その先の人生はどうするの? パートナーを捜す? 男? 女?
確かに後悔することしか思い浮かばなかった。だから、中絶する方が正解だという考えは、いつもレイシアの中で主旋律を奏でた。
グレッグの子供は欲しくないの? きっと、天使のようにかわいいよ。このチャンスを逃すと、二度とグレッグの子供を授かるチャンスはこないよ。赤ちゃんが生まれれば、グレッグも今の家庭を捨てて、レイシアになびくかもよ。
頻繁に、主旋律を否定するような、真逆の感情がレイシアを襲い、頭痛がするほど不協和音が脳内に響いた。その感情は正しくないのだと、何度となく、自分に言い聞かせようとしただが……。
レイシアは、生まれてこのかた、持ち合わせたことの無い感情をグレッグに抱いていた。
(彼は、私を愛し、私を指導し、私を高みに上げてくれる。私をいつも、やさしく包んでくれている。彼無しでは、私は生きていけない)
レイシアは、これが初恋なのだと自覚した。
男の人を愛せている。彼のいない人生が考えられない――
レイシアは、中絶したい気持ちはあるが、まだ、迷いもあった。
「アシュリー、私、中絶しようとしたのは本当よ。自分では、中絶できたと思ったんだけど……うまく説明できないけど、色んな事が重なっちゃって、最終確認まではしなかったの」
「どうして? 今からでも、間に合うから、もう一度行って、中絶してきなよ。今度は手術しなきゃいけないとは思うけど、産まれてしまうよりはマシよ」
(産まれてしまうよりはマシ……って……)
レイシアは、気付かれないように、そっとお腹に右手をあてる。
(アシュリーが私の体を気遣って、私の人生を心配してくれるのは、とってもありがたいんだけど。すごく私に寄り添ってくれるし、それは嬉しいんだけど、私のお腹の児には、厄介者のレッテルを貼って、それ以上踏み込もうとはしない)
心音があり、大きくなろうという意思は持っている。以前より、お腹の赤ちゃんに対する愛情が強くなっている。
「アシュリーごめん。ちょっと、考えさせて。今日は、疲れちゃったし。今はまだ、混乱してるし、すぐには決断できないよ」
最初のコメントを投稿しよう!