1.アシュリー・ソトマイヤーの怒り

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 次の日、アシュリーはレイシアを説得して、産婦人科医に連れて行った。  若い女医は、レイシアのお腹に聴診器を当てて、二、三度頷くと、ローションをたっぷりと塗った走査器でレイシアの下腹部の辺りを何度も往復させた。  装置のモニターにモノクロの映像が映し出されているが、何なのか、アシュリーには、さっぱりわからない。 「あなた、生理は、何週間きてないの?」  エコーの映るモニターを見ながら、女医がレイシアに訊いた。右手の走査器は、動き続けている。 「二カ月ちょっと……かな」 「いつもは、どれくらいの間隔なの? 前回来たのは、何月何日?」  女医は、走査器の先端をティッシュでふき取った後、それを装置のフックに戻す。 「周期は……ちょうど四週間かな。前回来たのは……」  女医は、カルテにメモをし出した。レイシアの答えた日付の下に今日の日付を書き込んで、計算している。 「そう、じゃあ、来るものが来なくなってからひと月以上、経っているわけね。なんで、もっと早くうちに来なかったの? ちょっと、気付くのが遅いんじゃない?」 「私、大学では、陸上の選手なんです。トレーニングがきつい時期もあって、そんな時は、よく生理が遅れるんです。今回も、それじゃないかなって……」  女医は、レイシアの眼底に向かって鋭い視線を送ったまま、動きを止めた。何か、疑っているように見える。 「先生、どうなんでしょうか? レイシアは妊娠しているんですか?」  沈黙に耐えかねて、アシュリーが口を開いた。 「そうね。妊娠10週目だと思うわ。おめでとうって言ったらいいのかしら。それとも……」 「堕胎(おろ)してください。人工中絶してください」  アシュリーはつい、口走ってしまった。  重大な決断は、本人の口から言わせるべきだと気づいて、すぐに押し黙る。  女医は、椅子を回転させ、レイシアの真正面に対峙する。 「レイシア、あなたの意志はどうなの? あなたもお腹の赤ちゃんを産みたくないの? 育てられない?」  レイシアはチラリとアシュリーを見た後、おもむろに口を開いた。 「はい……。堕胎(おろ)してください」  女医はため息をつき、書きなぐるように、カルテに何かを書いている。 「私は、赤ちゃんが可愛そうと思うから、産んで育ててもらいたいんだけど、レイシアは、まだ大学生だものね……。大学三年生か……。もうちょっと、後先のことを考えられるお年頃だと思うけど」  女医が尻目でレイシアを見ている。口元はやや緩み、侮蔑するような態度である。  まるで、レイシアが遊んだ結果なのだから自業自得だろうと、言わんばかりだ。 「先生、レイシアを救ってください。すぐに、中絶してあげてください」  アシュリーは、女医の態度が腹立たしかったが、気持ちをグッと堪え、早く対処する方向に話を進ようとした。 「それは、ここでは無理よ。キミたち、ハートビート法を知らないの?」 「ハートビート法?」  まったく無知ね、と言いたげに、深い溜息をついた女医が、ジョージア州の法律を説明しだした。 「妊娠6週目以降の中絶は、この州では禁止されているの。その頃の胎児は、すでに心音(ハートビート)が聴こえるから、生命を宿しているという考えね。さっきも伝えたけど、レイシアのお腹の赤ちゃんは、10週目よ。だから、ここでは堕胎(おろ)せないわ。もし、その子を堕胎したら、私が殺人罪になる可能性もあるのよ」  アシュリーはレイシアと顔を見合わせた。レイシアも知らなかったらしい。  だから、女医は、「もう少し早く気付いて、ここに来れば」なんて言ったのだ。しかし……。 「でも、先生。その法律、レイプとかなら、対象外なのではないですか?」  アシュリーはレイシアの顔を見られない。暴露することを申し訳ないと思いつつ、続けた。 「レイシアは、レイプされたんです。だから、お腹の子供は、望まない子なんです。そんな子を産んじゃいけないんじゃないですか? それでも、法律には堕胎(おろ)しちゃダメって書かれているんですか?」  女医はペンを置き、アシュリーとレイシアを交互に見た。 「そう、証明できるかい? レイプされたって証拠はあるの? 警察には届けた? 被害届は出したのかい? それなら、そのコピーを見せてよ」  アシュリーが見ると、レイシアは俯いて、小さく首を横に振った。  アシュリーには、レイシアの気持ちが手に取るようにわかる。  レイシアは、母子家庭で、本来、大学に通えるような金銭的な余裕が無かった。それでも、こうして通えているのは、類稀(たぐいまれ)な中長距離ランナーとしての才能のおかげだ。返済不要の奨学金がもらえているのは、陸上選手として活躍し続けているからである。  今回の件で、コーチのグレッグを訴えたとしても、証明できなくて、本人にもしらばっくれられたりしたら、選手生命を絶たれる危険性がある。それは、すなわち、大学も退学させられることを意味する。  レイシアは、そんな危険な賭けを冒せないでいるのだ。 「レイシアがそうだとは言わないけど、世間一般的にはね……」  女医が、レイシアを諭すように言う。 「レイプと偽って、実は、彼と別れたから堕胎(おろ)したいっていう人も多いの。近親相姦だと嘘をついた人もいたわ。よくよく訊くと売春婦で、避妊に失敗しちゃったみたいだったけど。だから、本当にレイプされたのなら、証明できるもの(エビデンス)を持ってきなさい」  病院からの帰りのバスでは、二人とも暗かった。  アシュリーは、グレッグに対して被害届を出さないのなら、ジョージア州から出てでも、人工中絶をするべきだと考えている。レイシアがこのまま妊娠を続けたとしたら、陸上選手としてはいられなくなる。そうなれば、大学は退学させられるし、さらに、赤ちゃんを産んでしまっても育てられないだろう。何も良いことが無い。産むべきでは無いのだ。 「レイシア、お金を貸してあげるから、別の州に行って、中絶してきなよ」  レイシアは、しばらく考えた後、コクリと頷いた。  ただ、ビル群に照り返される夕焼けが当たり、顔色までは分からなかった。
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