1.アシュリー・ソトマイヤーの怒り

3/3
前へ
/18ページ
次へ
 スポーツ系クラブ共通のトレーニングルームで、アシュリーは、負荷を10ポンド増やした。  ラットプルダウンマシンのバーを握り、肘を背中側に引きこむのを意識しながら、胸を張って、ゆっくりと引き下げる。上腕二頭筋や、広背筋によく効く。  背筋を使って槍が遥か遠くまで飛んでいくのをイメージしながら、それを何度も繰り返した。  アシュリーは、レイシアと違って、陸上選手としての才能はそれほどでもない。陸上クラブに通う理由は薄く、高校(ハイスクール)まで続けてきたものをやめるのももったいないと、なんとなく続けているという程度である。したがって、特別にコーチがつくわけでもなく、我流で改善を図っていくしかない。  トレーニングを続けるうち集中力が切れ、レイシアのことを思い出した―― 「そんなに、心配そうな顔しないでよ。大丈夫だよ。一人で大丈夫だから」  今朝のレイシアは、明るく振舞っていた。  大きなリュックを背負って、フロリダの実家に帰省すると言う。近くに産婦人科医があるので、そこで人工中絶をしてもらうつもりなのだと。 「本当に、大丈夫? ついていかなくてもいい?」 「いいって。大丈夫だから。じゃあね」  それ以上言うと怒り出しそうだったので、アシュリーは大人しく見送ることにした。せめてバスターミナルまで行きたいとも主張したが、それも断られていた。 「アシュリーは、ちゃんと大学に行って、講義を受けなさい。アシュリーは、弁護士を目指しているんでしょ。休んじゃだめよ」  レイシアは、笑いながら手を振って部屋を出て行った。  アシュリーは、レイシアに言われる通り、午前中から法学部の学生として講義を受けたが、身が入らなかった。  何事もなかったかのように、中絶して、元の明るくて活発なレイシアに戻って、帰ってくるのを想像しながらも、心のどこかに、暗澹(あんたん)たる不安もあった。 (本当に大丈夫なのかしら。元気になって、戻ってきてくれるよね)  そう願いながら、州法の教科書をめくって、ハートビート法を調べる。 (本当に、あったんだ……今まで知らなかったなんて、法曹を目指す人間として、恥ずかしいわ)  2019年5月に、ジョージア州で妊娠6週以後の人工妊娠中絶を禁止する法律が制定されている。女医が言ったように、人工妊娠中絶を受けた女性に殺人罪が適用される可能性があることも書かれていた。 (えっ!? 何、コレ?)  アシュリーが驚いたのは、それに続く、ジョージア州法の説明である。  そこには、『この法律のもとでは、流産した場合でさえ、10年から30年の禁固刑が課されることがある』と付け加えられていた。 (こ、これって、妊娠6週目を過ぎたら、産まない限り、罰せられるということ!? ちょっと、ひどすぎじゃない?)  アシュリーは、講義中にも関わらず、スマートフォンを取り出して、他の州ではどうなっているのか、こっそりと検索した。  すると驚いたことに、ジョージア州以外でも同じような法律のある州が存在することが判明する。  ミズーリ州、ケンタッキー州、オハイオ州、ミシシッピー州、アラバマ州……。テキサス州では、つい最近(2021年9月)、同様の法律が施行されたとある。権利擁護団体などが連邦最高裁に差し止めを求めたが、最高裁は同日夜、請求を退けている。 (何コレ? この流れ、ちょっと、まずいんじゃない?)  アシュリーは、焦ってレイシアの地元があるフロリダ州を調べた。  その結果、幸いにも、フロリダには、ハートビート法が無いということがわかり、胸を撫でおろした――  アシュリーは、ラットプルダウンマシンのバーを手放し、ダンベル置き場に向かう。  ダンベルの重さを選んでいると、トレーニングルームに入ってきたグレッグと目が合った。 「やあ、アシュリー、トレーニングに精がでるねえ。俺は、汗を流しに来ただけだよ」  グレッグは、聞いてもいないのに、自分がここに来た理由を言って、ランニングマシンに乗った。  アシュリーは、ベンチに左手と左ひざをつき、ダンベルを握った右腕をみぞおちの横に向けて引く。このトレーニングが、広背筋に効くことは実証済みだ。  マシンの上を走るグレッグの背中を、憎々しく睨みながら、ワンハンドローイングというトレーニングを続ける。 (レイシア、大丈夫。フロリダでは、妊娠22週目までの中絶は合法だったわ。あとは、この男を成敗しないと、気が済まないわよね)  グレッグは、首に掛けたタオルで時折、額の汗を拭った。背中はびっしょりと濡れていた。  ランニングを終え、トレーニングルームから出ていくグレッグを追った。 「ちょっと、待って」  廊下は、トレーニングルームに出入りする学生がひっきりなしに通る。  グレッグは、「は?」と、腑抜けた顔をこちらに向ける。  アシュリーは、通行の邪魔にならないように、グレッグを廊下の端に押しやった。 「グレッグコーチ、あなた、レイシアに何てことしたのよ! あの子、今、大変な目にあってるのよ。それなのに、よく平気な顔して、こんな所にいられるわね! どういう神経してるのよ!?」  アシュリーは、グレッグと直面すると、怒りが一気に込み上げてきて、罵声を浴びせかけた。 「なんだよ、急に。怖い顔して。美人が台無しじゃないか」 「ふ、ふざけたこと言わないでよ! ちょっと、ねえ、何考えてるのよ!? あなたはそれでも、コーチなの!? 教え子のレイシアに、あんなことして、なんて、人でなしなの!? 悪魔じゃないの、あなた!?」 「ちょっと、何のこと言ってんだよ? わかんねえよ。レイシアが、俺のこと、何か言ったのか?」  飄々(ひょうひょう)として、まるで動じないグレッグに怒りが心頭し、シャツの肩を掴んで押す。 「とぼけないでよっ!? 職権乱用みたいなことして、恥ずかしくないの!?」  今もなお、何人もの学生が目の前を行き交っている。ただでさえ大きな声を出して注目されるのに、“レイプ”なんて淫靡な単語を口にすることなんて出来ない。 「だ・か・らっ! 何のことかわかんねぇって言ってんだろ!? 最初から、要領よく説明しろよ!」  アシュリーは、グレッグを掴んでた手を払いのけられる。怒りばかりが(たぎ)り、次に返す言葉を探していると、お尻のポケットに入れていた、スマートフォンが震えた。 「アシュリー、お前こそふざけんなよ! 言いたいことがあるんなら、頭の中、まとめてから出直して来い!」  スマートフォンを見ると、レイシアからだった。出ないわけにはいかない。  立ち去るグレッグの背中を見ながら、通話ボタンをタップする。 「もしもし、レイシア? どうしたの?」  グレッグにはあきれた。反省の色がまるで無い。レイシアだけじゃなくて、他の子にも手を出している常習犯なのかしら……。
/18ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加