2.レイシア・バーハムの苦悩

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2.レイシア・バーハムの苦悩

 ジョージア州から隣のフロリダ州へ、長距離バスで移動したレイシアは、実家にも寄らず、早速、産婦人科医を訪れた。 「うん、確かに、妊娠10週ってところだね。どうする? このくらいなら、手術しなくても、ピルで中絶することもできるけど?」  綺麗なグレーヘアをした、いかにもベテランといった風格のある医師が言った。  レイシアは、ほっと安堵する。ベテランとはいえ、男性医師に、中絶手術を受けるなんて恥ずかしすぎて、決心できそうになかったから。 「ピルでやります。それで、お願いします。どうしたら、いいですか?」  レイシアは、ベテラン医師から説明を受け、注意事項を十分理解した上で、承諾書にサインした。 「じゃあ、この薬を3錠、飲んで。ミフェプリストンって言って、人工的に流産を促す薬だから」  レイシアは、(これだけ? これだけでいいの?)と思いつつ、用意された水で、錠剤を飲み込んだ。 「これから、3日間くらいは、副作用で、吐き気、下痢、頭痛、 腰痛、疲労感などがあるかもしれないよ。だから、ゆっくり体を休めてね。その間に出血があったら、成功した可能性が高い。また、3日後に来院してくれるかな。もし、次来た時にまだ流産してなかったら、別の薬を飲んでもらうからね」 (よかった……。思ったより、あっけなく終わったな)そんなことを考えながら、椅子から立ち上がって診察室を出ようとした時、もう一度、医師に呼び止められる。 「必ず、3日後だよ。これ以上胎児が大きくなると、手術しないと堕胎できなくなるから、必ずこの機会にちゃんと堕胎(おろ)してしまおうね。がんばろう」  ベテラン医師の優しい表情に癒されながら、診察室を後にした。  実家へ帰る路線バスを待つ間、レイシアは、アシュリーに電話した。すぐに出てくれると思ったのに、意外にも呼び出し音が続く。 「もしもし、レイシア? どうしたの?」  やっと出たと思ったら、アシュリーは何をしていたのか、息が荒い。 「ゴメンね、アシュリー。ひょっとして、陸上クラブの練習中だった?」  腕時計を見ながら、その時間だったなと、反省する。 「ううん。大丈夫。今、トレーニングルームから出たところ。もう終わったから。それより、どうしたの?」 「あ、そうそう。アシュリーには、いの一番に報告しようと思ってさ。さっき、お医者さんで人工中絶する(ピル)を飲んできたの。思ったより簡単で、あっけなくて、驚いちゃった」 「そうなの!? よかったじゃない、レイシア! これで、スッキリして、陸上に打ち込めるわね。おめでとう!」 「ありがとう。もう少し遅かったら、(ピル)じゃダメで、手術しないといけなかったって言われたから、こんなにうまくいったのは、お金を貸してくれたアシュリーのおかげよ。本当に、ありがとね」 「そんな、水臭いよ。困った時は、お互い様じゃない。そんなにあっさり終わったっていうことは、すぐに寮に戻って来られるわけ?」 「いや、念のため、3日後にも通院しないといけないから、しばらくは、実家で過ごすわ」 「そうなんだ。何日間もレイシアがいないなんて、寂しいけど、仕方ないね。先ずは、レイシアの堕胎と体調回復が優先だから、レイシアも頑張っているんだし、私も頑張るね。じゃあね」  アシュリーへの報告を終え、爽々(すがすが)しい気持ちで待っていると、ようやくバスが来た。  フロリダ州の州都であるタラハシー市のダウンタウン。築50年は経っているアパートの一室が、レイシアの実家だった。  魔除けを兼ねた鉄製のドアノッカーをコンコンと鳴らす。  返事も無く開いたドアから、見知らぬ男が顔を出した。 「誰? 何か用?」  男は、寝ぐせのついた髪を掻きつつ、不審の目を突き付けてくる。 「ママは? ここ、私の実家なんですけど」  レイシアは、物怖じしない。産婦人科医に行き、一山超えたことで、以前の調子を取り戻しつつある。 「イザベラの子か?」  男は、ぼそりと独り言のように呟いて、ドアを閉めた。  イザベラはママの名前である。中にママがいるらしい。中から話し声が聴こえてくる。  聞き耳を立てようとドアに近づこうとした時、勢いよくドアが開いた。 「ごめん、レイシア。驚かせちゃったかしら。さあ、入って」  間一髪のところで、レイシアはドアを避けた。目の前に、懐かしい顔がある。 「ママ、ただいま。さっきのは、誰?」 「まあ、そう焦らないの。話は中で、ゆっくりしましょうよ」  相好を崩したママが、ドアを大きく開けてくれた。 「レイシアも悪いのよ。連絡もしないで、突然、帰ってくるんだから。ちゃんと、言ってくれれば、食事の用意とかも、したのに。さあ、何してるの? ぼうっとしてないで、中に入ってちょうだい」  レイシアは、何もただぼうっと突っ立っていたわけでは無い。目を奪われて、動けなくなっていたのだ。 「じゃあ、おじゃまするね」 「“おじゃまする”って、なんて、他人行儀なの? 自分の実家じゃない。ささ、入って、入って」  ママは、顔だけ見れば、前と何も変わっていない。ただ、お腹が前に大きく突き出ていた。
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