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ママと生まれたばかりの赤ん坊は、そのまま3日間、入院することになった。女医には1週間の入院を勧められていたけど、見積もりを見たママは目を剥き、支払えないと一度は断った。それでも、ママと赤ん坊の健康を案じた女医は譲らず、値引きした上で、最短の日程とすることで交渉が成立した。
なので、この日、ダウンタウンにあるアパートには、デイビスと二人だけで帰った。
すでに、夜が更けている。
レイシアは、医者から安静でいるように言われていたが、もはや、それどころでは無くなっている。冷蔵庫に残った食材と、シンク下にあった缶詰を適当に炒め、自分とデイビス、二人分の食事を作った。
「お待たせです。お口に合わないかもしれませんけど」
「ああ、悪いね、レイシア。助かるよ」
ソファから飛び起きたデイビスが、ダイニングチェアに座る。
「うまそうだ! 早速、いただくね」
ビールを片手に、デイビスは、おいしそうに料理を食べた。
「上手い! 上手いよ。あいつなんかより、レイシアの方が、料理が上手いんじゃないか?」
どんな形であれ、これまでは、褒められて嫌な気持ちになったことが無かったが、今回ばかりは違った。
全身に虫唾が走る。
「レイシア、どうしたの? レイシアは食べないのかい?」
レイシアは頬杖をつき、自分の手料理を眺めるだけで、食欲が無かった。
デイビスと二人きりにされたショックのせいかとも考えたが、それだけが原因ではなさそうである。
頭痛がして、倦怠感もある。ひょっとしたら、薬の副作用が出始めているのかもしれない。
「私はいらないわ。よかったら、私の分も食べて」
レイシアは、そう言うと立ち上がり、自分の部屋に戻った。ベッドに横になる。
(怒涛のような日々だわ。少しも休む時間が無い……)
目を閉じると、意識が遠のいていった。
レイシアは、頭を撫でられている。
撫でているのはコーチのグレッグ。今や、レイシア専属になったかのように付きっ切りで指導してくれている。彼の指導は、とても論理的で分かりやすく、実際に記録も伸びているので、レイシアは全幅の信頼を寄せていた。
ジョージア州の大会で優勝した次の日は、お祝いとして、食事に連れて行ってもらった。ドレスコードのある、高級なレストランだとは知らず、レイシアは、カジュアルな格好をして行ってしまった。
グレッグは、「大丈夫、任せておいて」と、店のオーナーと交渉し、レイシアを特別なガーデンテラスの席に案内してくれた。
「ここなら、他の客もいないから、服を気にすることはない。店も、他の客も、我々も、みんなハッピーな解決策さ」
その日は、人生で一番幸せな日だったかもしれない。
あんなにおいしい料理を食べたのは後にも先にもあの時だけだし、人生で初めてワインを飲んだのもあの日。ほんのりと酔いがまわる感覚で脳内が幸福感で満たされ、不思議と饒舌になって、グレッグとの会話が弾んだのよね。
幸せな時間を過ごすうち、グレッグのことがコーチ以上の存在に思えてきて、ドキドキしちゃって、大変だった。
もちろん、グレッグは既婚者で家族を持っているのは知っている。それでも、経験したことの無い甘酸っぱい感情が沸々と湧いてきて、それを抑えるのにとても苦労したの。
不思議だった。
これまで、男の人を好きになったことなんて無いのに。
レイシアは、まだ、頭を撫でられ続けている。グレッグはテーブルの向こうにいるのに……。場面にそぐわない、やけにリアルな感触に、夢を見ているのだと気付き、はたと目が覚めた。
「ようやく起きたかい、レイシア?」
枕元にデイビスが座っていて、頭を撫でてきている。レイシアは、すぐには状況を把握できず、一時、頭が混乱した。
「鍵をかけないでベッドに寝るなんて、誘っているんだろう? レイシア?」
デイビスのシャツは、前のボタンが全て開いている。そこから、だらしなくプックリとしたお腹と、胸毛が覗く。
頭を撫でていたデイビスの右手が、頬を伝い、乳房に下りてくる。
「いやっ! なんなの、変態っ!?」
レイシアは、くるりと体を回転させ、デイビスをベッドの下に、蹴落とした。
「ふざけないでっ! 出てってよ! 何を考えてるのよっ!?」
窓際に逃げ、枕を投げ、リュックを投げ、写真立てを投げた。
カギを解錠し、窓を開ける。
「出てってよ。今すぐ、この部屋から出てって!」
ベッドの向こうで、デイビスがのっそりと立ち上がった。
「出て行かないなら、窓から飛び降りて、助けを呼ぶわよ」
「なんだよ、それ? 誘ってたんじゃ、なかったのかよ。紛らわしいことしやがって、まったく」
デイビスは、ボサボサの頭を掻きながら、部屋を出て行った。
助かった……。
レイシアは、急いでドアを閉めて、鍵をかけた。
ドアを背にしゃがみ込み、深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
(デイビスと二人きりなんて、やっぱり無理。元々、生理的に合わなかったけど、本性を知った今、顔を見るのも嫌。反吐が出そうだわ。ママは、あの色魔のどこに惚れたっていうの)
開いた窓から、夜風が吹き込んできた。
レイシアは前髪を揺らしながら、窓際に近づく。窓からは、寂れた下町の風景が広がっていた。
ホームレスがゴミ箱をあさり、ギャング風の一味が駆けていく。
幼い頃から見慣れた風景だが、昔も今も、夜中に一人で出歩くことなんて出来ない。今回は、ハッタリが効いたけど、次にあいつに襲われたら、どうしよう。
(もう、ここにはいたくないな……。アトランタの寮に帰ろうかな)
明朝、レイシアは、デイビスが起きてくる前に、リュックに荷物を詰め込んで実家のアパートを出た。
心残りは、自分の中絶のことである。今朝になって、少量の鮮血は出たけど、流産できているのかどうか定かではない。もう一度、あの産婦人科医に行って診てもらうべきだと思うが、診察は明日である。今晩、泊まるところが無い。宿代を出すのが惜しい。
また、例え明日診察に行ったとしても、そこで再度薬を飲むことになったら、さらにここに滞在しないといけなくなる。そんなお金は持ち合わせていない。
こうなってしまっては、どのみち、前回の薬が効いていることを願うしかない。
レイシアは、そう割り切って、アトランタに向かうバスに乗り込んだ。
バスの中で、アシュリーにメールを打つ。
「アシュリー、元気? 私は、もう、大丈夫。今、アトランタ行きのバスに乗ってるの。これから、帰るね。また、あとでね」
地平線まで続く綿畑を眺めながら、レイシアは、物思いにふけった。
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