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隣人
このアパートに越して来て半月。正直俺は後悔していた。
駅から徒歩15分、コンビニまで徒歩5分。洋室8畳ワンルームの、木造二階建てで全6戸のこぢんまりした建物。築5年、家賃6万円。その条件で更に風呂とトイレが別なのが魅力で、即決だった。
元は女性向けに建てられた物件らしく、浴槽はピンクだしトイレの壁紙はメルヘンだが、その分収納も充分だし部屋に呼ぶようなオンナも居ないから気にすることはない――が。
「……あ」
「こんばんはー」
「はぁ……こんばんは」
201号室、すなわち俺の部屋の左隣に住むその女と階段で鉢合わせてしまい、俺は露骨に表情を曇らせた。
ラフな服装と手に持った袋を見るに、出掛けるわけではなく翌日の燃えるゴミを出しに行くところなのだろう。対する俺は仕事帰りで、くたびれたスーツ姿にコンビニで温めてもらった唐揚げ弁当を持っている。
今夜も隣は家に居る。それを知ってしまっただけで、ただでさえ疲れているのに余計に疲労感が襲うようだった。
このアパートに越して来て半月で、この隣人が厄介だと知ってしまい後悔していた。
集合住宅で、ある程度の生活音は互いに目を瞑るべきだということは重々承知している。
ましてや木造だ。
朝が苦手な俺が毎朝6時半にけたたましく鳴らしている目覚ましの音だって周りには迷惑な話だろうし、下の階の女性がたまにアイドルのDVDを鑑賞しながら熱唱しているのも微笑ましく聴いている。
右隣、203号室の男性が週末連れ込む恋人との戯れが聞こえるのは気になって仕方ないが、何よりも先程の彼女が住む201号室から聞こえる“声”が不快で仕方なかった。
そして毎晩、今日こそは文句を言いに行こうと意気込むのだが、決まってその声が深夜2時過ぎに聞こえてくるということが俺の足を重たくするのだ。
唐揚げ弁当を平らげる頃、201号室の彼女がシャワーを浴び始めた。
たまに見かける時の服装からも窺い知れるが、生活音からも倹約家なのだろうと思われた。
マメにシャワーを止めているようだし、ブランドバッグを持っているのも見たことがない。
テレビも朝晩のニュースの時間以外観ていないようだったし、夜中誰かと長電話をするようなこともない。
そして先程のように顔を合わせれば笑顔で挨拶をしてくれる、ある程度常識のある女性だと思う。大きな物音がしたこともない。
だからこそ、夜中の2時の声は余計に耳に付くし、精神的にかなり参るのだ。
うん、今夜こそ言おう。
明日は仕事も休みだし、夜更かししておこう。声が聞こえたらすぐに隣に乗り込めるようにTシャツも着ておいて、今夜こそ文句を……――――
ボソボソと耳障りな“声”が聞こえてきて、俺は目を覚ました。
起きているつもりだったのに、週末で疲れも溜まっていたのか、気付けばウトウトしてしまっていたようだ。
手にしていた雑誌は見た記憶のないページが開かれている。
201号室側の壁に耳を近付けると、いつもと同じような低い男の声が聞こえた。
あまりにボソボソ喋っているため内容は聞き取れないが、心地の良い声ではない。
初めにこの“声”に気付いたのは一週間ほど前。引っ越して一週間弱、部屋もやっと自分色になり落ち着いた頃だ。
それまでは慣れない新しい暮らしに日を跨ぐ前に眠りに就いてしまっていたし、熟睡していたから気付かなかったのかもしれない。
いや、その前日まで201号室にどんな人が住んでいるのかも知らなかったから意識していなかっただけなのだろうか。
今日と同じようにゴミ出しに部屋を出た彼女と初めて挨拶を交わし、特に美人ではないけれど感じの良い人だと感想を持ったから、余計に夜中に男の声が聞こえてくることが気になったのだろうか。
あんな常識的な女性が非常識なことをするとは思えなかった。
しかし、現にこうしてその日から毎日、そう、今日、今この瞬間だって201号室は非常識だ。
時計の針は午前2時を回ったところ。規則正しく非常識を繰り返す彼女。
その時刻になるまで、隣から会話は聞こえてこない。この8畳一間の部屋に二人暮らししているとも考えにくいし、何より聞こえてくる生活音は彼女が一人暮らしだということを物語っていた。
聞こえてくる声のトーンから、ホラー番組でも観ているのかと予想している。
そういう、少し不気味というか、抑揚のない淡々とした口調なのが一層不快だった。
「……いいよな……?」
苦情を言うだけ。迷惑しているのはこちらだ。
だけど、女性の一人暮らしの部屋にこんな夜中に男一人で乗り込んでいいものだろうか。いつもはそう考えて結局文句の一つも言えないままストレスを蓄積させているのだ。今夜こそ言うと決めていたじゃないか。
あまり物音を立てないように玄関を出て、201号室のチャイムをそっと押す。
静まり返った真夜中のチャイムは外にも響いて、やはり非常識なのは自分のほうかとも思ってしまう。
共用部の通路を照らす蛍光管にぶつかる羽虫の音がやたらと耳についた。
「……は、はい……?」
1分くらい待った頃、やっと中の女性の声が届いた。
その声色からかなり警戒している様子は伝わってきた。当然だ。午前2時だぞ。
「夜分遅くにすみません、202号室の者なんですけど」
「……っ!」
見えないし聞こえないけれど、なんとなく扉の向こうで息を呑んだ気配がした。静寂の中で感覚が鋭くなっているのかもしれない。
「……あ、あの……?」
恐る恐る、といった様子で開かれた扉は、チェーンによって10センチ程しか隙間を作らなかった。
その向こう側から寝巻き姿の彼女が眉を寄せている。
「すみません、こんな時間に」
「いえ……あの、なんでしょう?」
「あー、いや……」
耳を澄ませてみても、部屋の中からあの“声”は聞こえない。
どう伝えるべきか思案していると、彼女の方から切り出してきた。
「もしかして、何かご迷惑をお掛けしてしまいましたか……?」
「あ、いえ、えっと――――」
俺は正直に、ここ一週間程この時間帯に聞こえてくる声が気になるということを話した。
黙って聞いていた彼女だったが、俺の説明を聴き終えた頃には青褪めた顔をしていた。
「……あの、声、って……私、一人暮らしですし……」
「あ、そうですよね。だからテレビか何かの音なんじゃないかと思うので、少しボリューム――――」
「大抵、この時間は……今日もですけど、寝てました。あの、テレビとか、あまり観ないですし……」
「でも、確かにさっきも……」
説明しながら、俺自身も疑問を抱いていた。
出てきた彼女の顔は寝起きそのものだったし――なんなら少しだけ寝癖もついているし、正面の洋間は闇に覆われ、俺を出迎えるためだけに今点けられた玄関の電気しか明かりはない。
「……お、おばけ……?」
今にも泣き出しそうな目で俺を見る彼女は、不安気に自分の体を抱きしめている。
悪いことをしてしまったという気持ちが一気に広がる。彼女は何も迷惑行為などしていなかったのだ。
「いや、それはあまりに非科学的でしょう……」
「で、でも、あの、貴方は……毎晩男の人の声が聞こえていたんでしょう……? おばけじゃなければ……」
「……不審者……?」
口にして、ハッとした。
不安を煽るようなことを言ってしまい、失言だったと後悔する。
案の定、涙目で震える彼女。
「あ、あの、あの……ごごご迷惑かとは……お、思うんですが……」
言いにくそうに俯く彼女。言わんとしていることがわかり、俺から提案した。
「中、調べましょうか……?」
「! お、お願いします……っ」
こうして名前も知らない201号室の女性の部屋に上がることになってしまったのだが、迷惑で仕方なかった筈の彼女が不安がっている姿は、庇護欲を掻き立てられるようで不思議な感覚だった。
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