始まりの赤

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始まりの赤

 視界は赤だった。  それは正確には橙や黒が主で、しかし流れる鮮血と爛れた肌の赤がひたすら焼き付いた。  数時間前には笑顔で送り出してくれた母親が、その腕の中で真似して手を振っていた妹が、橙に包まれて、崩れた家屋に潰されて、赤と黒の塊になっていた。  もう一生泣けないんじゃないかと思うほど涙は流れたけれど、結局その炎は全てを消し炭にするまで消えることはなく、ただ一人きりで生きていくには充分過ぎる金だけが手元に舞い込んだ。  しかし早々に、大金を持っても幸せは買えないのだと知ることになる。  いくら人を雇って調べても家族を奪った犯人は見つからなかったし、どれだけ食費をかけても温もりを感じられる手料理には及ばなかった。  寂しさも心細さも、いつしか思春期の背伸びした思考に押し込められ、高校に上がる頃には冷めた人間が完成していたのだった。 「…………ッ!?」  首筋に冷たい何かを感じて目を覚ました如月晴樹(きさらぎはるき)は、それが缶ジュースだと知り溜息をついた。  晴樹が突っ伏していた机にそのジュースを置いたのはクラスメイトの梶原千鶴(かじわらちづる)で、気怠そうに黙ってジュースを開ける晴樹を見つめ、千鶴は前の席に腰を下ろした。 「おはよ。もう放課後だけどね」 「……そうだな」  二人は付き合っているわけでもないし晴樹にその気はないが、千鶴の想いは周知の事実だった。  勿論晴樹本人もそれを知った上で関わっているし、その気持ちを利用すらしている。曖昧な関係は半年程前から続いていた。 「今日は塾ないから……如月君の家、行けるよ」 「……っそ」 「迷惑?」 「別に」 「そう――――」  容姿も性格も同年代の女子よりも大人びている千鶴は、同じように落ち着いた晴樹に惹かれている。  もっとも晴樹のそれはどちらかというとスレているだけなのだが、それでもクラスの男子のようにバカみたいなことで盛り上がって騒がないというだけで、彼女からしてみれば魅力的だ。  弾まない会話もいつものことだが、晴樹の瞳に自分が映るだけで千鶴は満足だった。  それに、学校を出て晴樹の家に行けば二人に距離はなくなる。その時だけは晴樹も千鶴と向きあうし、触れ合う。恋人という肩書きに囚われなければ問題はないはずだし、千鶴も別に晴樹の彼女になりたいわけではない。 「さっきね、石倉先輩が文句言いに来たのよ」 「……石倉?」 「覚えてないの? 先月……先々月くらいかな? 如月君が遊んだヒト。背の高い――」 「えー? ……あぁ、もしかしてショートカットの……?」 「うん」 「なんだって?」 「“晴樹は私のなんだけど”って、私に怒鳴ってたわ」 「別にそのヒトのモノになった覚えはないんだけど……」 「でしょうね。だから私も言ってやったわ。“如月君は誰でもいいんですよ”って」  そして可笑しそうに目を細める千鶴は笑い話のつもりで話したのだろう。それに対して晴樹は「そうだな」とだけ呟き、予想はしていたものの千鶴の不満は表情に出た。 「……何? “梶原がいいんだ”とでも言えばよかった?」 「そうじゃないわ」  否定しつつ晴樹の家に着いても何処か不満気な千鶴を、面倒くさいと思いながら抱き寄せ強引に口付けて押し倒す晴樹は、やっと千鶴が機嫌を直したのを見て、今度は心の中だけで溜息を吐いた。  いくら物分りの良いオンナを演じようとしたところで、結局千鶴も他のオンナと同じ。独占欲の塊で、自己顕示欲の強い生き物。  だから晴樹も自分の欲望のために千鶴を使うだけ。恋や愛など無縁だと思っているし、不要だとも思っていた。  大切な存在を作ってしまうことを恐れているという本音は胸の奥底に隠している。 「送ってくれなくても大丈夫よ」  事の後、門限があるからとすぐに帰ろうとする千鶴と一緒に家を出た晴樹は、そんな彼女の自惚れにうんざりしながら曖昧に否定する。 「いや、コンビニに飯買いに行くだけだし……」 「ふふふ、ありがとう」  勝手に良い解釈をして笑顔をこぼす千鶴は、確かに可愛い顔をしている。一部の男子が騒いでいるのは晴樹も知っていたが、改めて整った容姿を認めたところで彼女への対応を変えるつもりもない。  すっかり暗くなった街灯もろくにない道を無言のまま並んで歩く。 「じゃあ、また月曜日、学校でね」 「ん」  晴樹の住むアパートからコンビニまでは歩いて二十分はかかる。  ベッドタウンで商業施設が少ない街の中でも更に閑散とした場所ということもあり、家賃の安さと学校までの近さに負けて妥協したものの、主な食事をコンビニ弁当で済ます毎日の中で後悔が生まれていた。犯人は現場に戻るという俗説を信じ生まれ育った土地で暮らそうとこの街に留まってはいるが、やはりもう少し便利な場所に引っ越そうかと考えながら、代わり映えのないラインナップから無理矢理弁当を選んだ晴樹は、ペットボトルの緑茶と一緒に会計を済ませ外に出た。  真夏の夜にしては涼しい夜風が頬を撫でる。海が近いから涼しいのだろうかとぼんやりと思う晴樹は、いつもの潮の匂いの中に微かに不快な生臭さを感じた。 「…………?」  鉄のようなその臭いは、風上にある神社のほうから流れてくるようだった。  ほんの少しの好奇心で様子を見てみようと境内に足を踏み入れた晴樹は、目の前に広がる光景に手にしていたコンビニの袋を落とし、こみ上げる胃液を飲み込むのが精一杯だった。 「大丈夫ぅ~?」  晴樹が見た”モノ”の前で腕を組んで立っていた一人の女性は、蹲る晴樹に近寄り落ち着いた様子でしゃがむと、楽しそうにそう訊ねた。 「な……っ、え、それ……かはっ」 「もー、そんなキツイ臭いするかなぁー? よしよし、大丈夫かなー?」  幼い子どもをあやすような口調で晴樹の背中をさする彼女は、涙目で吐く晴樹をまじまじと観察していた。 「あ、お茶持ってるじゃない。ほらほら、これ飲みなさい」 「…………あんたは……」 「んー? アタシが美人過ぎて惚れちゃったの?」 「……この状況でよくそんな軽口……」 「この状況? って、夜の神社、月明かりの下で出会う男女ってロマンティックじゃない?」 「……」  あくまで笑顔を崩さない彼女に警戒心をむき出しにする晴樹は、彼女が見ていた”モノ”へと再び目をやる。  それは大木に磔となった人間。  男――四十代後半か五十代前半くらいだろうか。  胸に包丁のような物が刺さっているが、手足や首にも数箇所に杭のような物が刺さっており、それで体を固定されているようだ。足元は土が黒く染まっていて、既にカラスが集まりだしていて男の周りが五月蝿い。 「気になるの?」  問い掛けに黙って頷くと、クスリと笑って晴樹の長い前髪を掬い、彼女は答えた。 「教えてあげるよ。でも、此処じゃアタシはいいけどキミがツラそうだから……そうだ、ウチにおいでよ。この近くなんだぁ」 「いや……」 「ん? 気になるんでしょう?」  彼女はナンパでもする感覚で軽く話しているが、状況からして異常なことは晴樹も充分わかっていた。  明らかに死んでいる人間の前で――死臭漂う空間の中で平然としている彼女が酷く恐く、ついていけば殺されるかもしれないとも思ったが、断ったらこの場で()られるのではとも思い、晴樹は仕方なく彼女の家に連れて行かれることに同意した。 「名前は?」 「……」 「やだもぉー! そんな警戒しなくても、とって喰ったりしないわよぉー……あ、アタシはアヤ」 「……晴樹」 「ハルキ? じゃあハルって呼ぶね。アタシのことはアヤって呼んで」 「さっきのは……」 「ハルはせっかちねぇー。もーちょっとでウチに着くから……ホラ、そこのタワマン」  アヤと名乗る女が指をさしたのは、この辺りでは数少ない高級な分譲マンションだった。セキュリティの高さと部屋の質の良さ、それに比例して高い金額は高校生の晴樹でも知っている程で、まだ二十代前半に見えるアヤへの不信感は更に強くなった。 「大丈夫、アタシ一人暮らしだから、ナニしてもいいよ」  冗談には付き合えないと無言で眉根を寄せる晴樹に、アヤは少しだけ真面目なトーンで話し掛けた。 「……ホント、そんなに怖がらないで。アタシはただハルとお喋りしたいだけだから」 「あのさ、アヤは……」 「んー?」  エレベーターを降りて部屋の前に着き、中に入るよう促すアヤに向き合った晴樹は、掴みどころのない彼女のペースに飲み込まれないよう覚悟を決め、一番気になることを訊ねた。 「さっきのは家の中で聞くとして……アヤは、俺を殺すつもりか?」  先程晴樹が見た男を殺したのがアヤだったとしたら、口封じのために晴樹の命も奪うのが自然に思えたが、ならばわざわざ移動せずともあの場で殺せばよかったものだ。  例えこれからそのつもりでもアヤが馬鹿正直に答えるとも思えなかったが、少なくともこの問い掛けで晴樹がアヤを警戒しており、アヤの回答次第で動きを変えようという策があると思わせることは出来ると考えた晴樹だった。 「……ふぅん」  何処まで晴樹の思考を読み取ったのか、アヤは意味深長に視線を絡めると、可笑しそうに目を細めた。 「大丈夫、信じられないかもしれないけれど、口封じのためにハルを殺すつもりはないよ。そもそもハルはアタシがあの男を殺ったと思い込んでるよね。あの状況じゃ仕方ないけど」  警戒は緩めないままアヤの部屋に入った晴樹は、物の少ない広いリビングの中央に置かれたソファに座るよう促され、アヤと並んで腰を下ろした。 「じゃあアヤはやってないの?」 「まぁ私が殺したんだけどね。でもそれが私の仕事だから。依頼されたからあのオジサンを殺したし、依頼されてないから見られたからってハルを殺したりしない」 「仕事……? 殺し屋ってこと?」 「ん、そんな感じ。あのオジサンのことはきっと今夜か明日の朝には大きなニュースになるよ。今をときめくテッペンモバイルの重役だから。ハルだって知ってるでしょ?」  テッペンモバイルといえばここ数年でかなり成長した企業で、日本では主に携帯電話の開発に力を入れている。晴樹が持っているスマートフォンもそこの製品だ。 「なんで……?」 「んー、その辺は部外者には教えられないんだ。けれど、あのオジサンには殺されても仕方ない理由があったの。だからアタシは依頼を受けた。流石に無差別に殺してヒャッハーしてるわけじゃないよ」 「殺されて仕方ない理由って……何言ってんだよ……そんな人……」 「”殺されてもいい人間なんていない”だなんてクサいこと言うの? ハルはなんとなくそういうイイコちゃんな回答はしないと思ったんだけどなァ」 「だって、命を奪うんだぞ!?」 「……そりゃーね、ハルから見たらそのオジサンは関係ない赤の他人だよ、そう思うのも普通。じゃあ、例えばハルが親や恋人を目の前で意味もなく殺されたとして、犯人を殺してやりたいとは思わないの? アタシはそんなの我慢出来ない。大切な人を奪っておきながら犯人がのうのうと生きているなんて納得出来ないよ」  アヤの言葉に昔の火事を思い出した晴樹は息を呑んだ。  ある日突然、何の罪もない家族が炎に包まれてこの世を去った。晴樹の家族に落ち度はなく放火事件だと警察も断定したが、犯人は未だ見つからないまま。  あの日から何度も犯人を憎いと思ったし、殺したいとも思ってきたのだ。  そう考えればアヤの言うことも理解出来る気がした。 「……そうだね、殺したい」 「――でしょう? でも、人はとても弱い。実際に自分で手を下して罪を犯す勇気もなければ、巧く殺す術も知らない。だからアタシが引き受けてあげるの。正義の味方ってヤツ」 「正義ではないだろ……よくてダークヒーロー?」 「やだなぁ、こんな美人で若いオンナなんだから、ヒーローじゃなくヒロインがいいよ。メインヒロイン♪」  笑うアヤ。 「なんで俺に話したの? 冥土の土産?」 「だからぁー、なんでそう殺されたがるの? 違うよ、そうじゃない。ちょっと協力して欲しいの」 「協力?」 「うん、実はアタシ、仕事の相棒探してるんだ。アタシって結構腕がいいし美人だし、依頼増えてきちゃって。でね、現場誰かに見られたらその人を雇おうと思ってたの。そこにハルが来ちゃったってワケ」 「……見られたらっていうか、見せる気だったんだろ?」  腕の立つ殺し屋がそう簡単に現場を目撃されるようなことをするとは思えない。  あえて今回あの神社で現場を見せ、目撃者の命を握ることで強引に引き入れるつもりだったのではないか。  そう考える晴樹だったが、そうであるとしたら既に自分の命はアヤの手の中にあるし、退屈な日常から抜け出せそうな気もした。何より、そういう世界に足を突っ込めば家族を殺した放火犯の手がかりも掴めるかもしれないという期待が大きかった。 「雇う、ってことは報酬も出るんだろ?」 「え? 引き受けてくれるの?」 「俺の仕事は?」 「勿論殺しはさせないよ。情報収集だったり、慣れてきたら使うものの仕入れとか」 「俺、高校生だけど」 「んー、ガッコは普通に行っていいよ。ていうか行ったほうがいい。あんまり極端に生活は変えないで。放課後とか休日とかに事務的なことをして欲しいの」  握手を求め手を出すアヤ。  その細く白い手を握った晴樹は、非日常へと踏み出した。
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