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地獄の電車に揺られること三十分。僕はようやく最寄駅に着き、急ぎ足で自宅へ戻った。ようやく人心地ついた。ようやくひとりになれた。
大川医師からあまり目に触れないようにと注意を受けていたが、今の僕は真っ先に顔を洗いたかった。冷たい水を浴びれば、気分がスッキリすると思ったからだ。
脇目もふらずに僕は洗面台に向かい、バシャバシャと顔を洗った。気持ちがいい。冬なのに冷たい水が気持ちがいい。
僕は狂ったように何度も何度も冷たい水で顔を洗った。本音が文字情報で見えてしまうのならば、他人と顔さえ合わせなければいい。まずはこの目を治してくれる医者を探そう。僕自身の人生を取り戻すために。
大丈夫、金なら腐るほどあるんだ。
頭の中もスッキリした僕はタオルで顔をごしごしと拭き、ふと鏡を見た。
「……ああ、そんな馬鹿な」
鏡の中の僕はこうしゃべっていた。
【憎い】
「なんで……? どうして……」
【誰も彼もが憎い】
神の目はあくまで神の目なのだ。けして僕の目ではない。ゆえに、この僕自身の本音も文字情報として目で見えてしまうのだ。
【殺したい】
【こんな目にしやがって】
【詐欺だ】
【高い金払わせやがって】
【あのクソ女が】
「うわああああーーっ!」
僕は金切り声を上げ、右のこぶしで思い切り鏡を叩き割った。
神の目は言葉を失う。
「はぁ……はぁ……っ」
大きくひび割れた破片が洗面台に散らばる。僕の右手から血が流れる。
「痛い……」
「なにもかもあいつらのせいだ」
「訴えてやる」
「殺してやる」
「よくも僕の目をこんなに……っ」
どうしてだろう。鏡を割ったはずなのに、僕の中の本音が消えない。神の目は、やはり神の目なのか。
「その目をつぶせ」
誰かがささやいた。
「見えなくなれば僕は幸せになれる」
誰だ。誰の声なんだ。
「つぶせ」
「串刺しにしてしまえ」
「つぶせ。つぶせ。つぶせ」
僕は洗面台に散った破片の中で一番大きくて鋭いものを手に取った。
了
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