偽物

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「おかえりなさい」  渡された合鍵でひっそりとアキラが帰宅すると、ソファに浅く腰掛けて読書中だったマリアが微笑む。日付はとうに変わっていて、仕事をしているマリアは既に眠っているべき時間だと思っていたアキラは、いつもと変わらない落ち着いた口調で自分を迎え入れる彼女に少しだけ苛立った。 「マリア、俺が遅くても寝ていてくれと言った筈だけど」 「アキラを待っていた訳じゃありません。この小説が面白くてつい夜更かしをしてしまっただけです。丁度そろそろ寝ようかと考えていたところですが?」  マリアの優しい嘘はいつもバレバレだったが、アキラはあえて何も言わなかった。自分のために待っていてくれる人間が居るということがこれ程嬉しいことだったのだとアキラが知れたのはマリアのお陰だ。アキラの帰宅に嬉しそうな顔を見せるが、同時に不安げに眉を寄せるマリア。 「また口元が切れていますね……せっかく右頬の痣も落ち着いてきたと思ったのに」 「これくらいなんてこと無いよ」 「でも、私が見て痛いんだもの、アキラ本人はもっと痛いに決まっています」  いつものようにマリアが手当てをする。大人しく手当てされるアキラが、真剣な面持ちで消毒をするマリアをじっと見つめてみると、視線に気付いたマリアが優しく微笑む。 「どうしました?」 「いや、何でマリアはこんなに尽くしてくれるのかなって」 「……尽くしているつもりはありませんよ。私はいつも自分勝手に、自分のしたいことをするだけです」 「――喧嘩して帰ってくること、怒らないの?」 「ふふっ、怒って欲しいのですか?」  アキラは不思議で仕方なかった。  こんな身元も知れない男を何週間も家に置き、合鍵さえも預けている。毎晩出掛けては傷だらけになって帰ってきて、仕事もして来ない男を。期待していた訳でもないが、マリアがアキラに“男”としての何かを求めてくることは一度もなかったし、最初に言われた通り紅茶を淹れるという仕事さえこなせば何も要求してこない。それどころか、金を持たないと困るだろうと数万円持たせてくれて、服も数着買ってくれた。まるでヒモじゃないかとアキラは自嘲する。 「そういえば、それは?」  帰宅した時にアキラがテーブルの上に置いた紙袋を指し、マリアが小首を傾げる。 「見てみて」 「いいんですか? ――――まぁ! どうしたんですか?」 「えっと……たまたま通り掛かったんだ。色んな茶葉が売ってて、どうかなって。ホラ、いつもダージリンじゃ飽きるから……」 「ありがとうございます! 実は私、こういったフレーバーティーも大好きなんです。あ、ハーブティーもあるじゃないですか! すごく嬉しいです……っ」  ファミレスでドリンクバーを知った時くらい興奮気味に話すマリアは、そして我に返り咳払いをひとつした。 「……本当に嬉しいです。ありがとうございます、アキラ」 「いや……どういたしまして」  買ってきたといってもその金はマリアのものだ。流石に渡された物を遊ぶ金にするわけにもいかず、しかし食事代にしては余裕がある金額で、気持ちだけでも何かマリアにしてやれたらと思ったのだがやはり気恥ずかしさが拭えない。何より自分の金でプレゼント出来ないことが酷く悔しかったから、無邪気に喜ぶマリアの笑顔を素直に喜べなかった。 「アキラの淹れるお茶は何よりも美味しいので、毎日それが楽しみなのです」 「マリアも自分でお茶だけは淹れられるでしょ」 「ただ淹れられるのと美味しく淹れられるのとは全然違います。アキラが淹れてくれるお茶は、喫茶店で飲むのよりも真代さんが淹れてくれたものよりもずっと美味しいんですもの」 「そんな大袈裟な」 「本当です! もうアキラ無しでは生きていけないかもしれませんね」  冗談めかして笑うマリア。たとえリップサービスだったとしても、容姿以外に褒められることのなかったアキラはとても嬉しかった。世話になっているから恩を返したいのか、ただマリアの喜ぶ顔がみたいだけなのか、いつしかアキラにはハッキリと自分の行動の意味を答えることはできなくなっていたが、期待に応えたいと紅茶の淹れ方の本を買ってみたり、茶葉を買った店の店員に話を聞いてみたりした。 「アキラ、喫茶店で働いてみませんか?」  ある日、いつものようにアキラの淹れた紅茶を飲んでいたマリアは、唐突にそんな提案をした。 「実は、私の祖父の古くからの友人の……訳あって私はその方をおじい様と呼んでいるのですが――そのおじい様が小さな喫茶店を営んでいるんです。今までは私も頻繁にお手伝いをしていたのですけれど、最近私は“本業”が忙しくなってきてしまい、喫茶店のほうになかなか行けないのです」 「手伝ってあげたいけれど……俺は今までまともな仕事もしたことがないし、言葉遣いも悪いし……接客業には向いていないと思うな」 「そんなことありませんよ。ご自分で気付いていませんでしたか? 最近のアキラは、最初に会った頃より物腰も柔らかくなって、乱暴な言葉遣いも減ってきているんですよ」  マリアの言う通り自分では気付かなかったが、言われてみれば確かに以前に比べると言葉を荒げることは少なくなってきたかもしれないとアキラ自身も思った。篤志はずっと出稼ぎに行っているようでここのところ会えず仕事も回ってこなかったアキラは、安い賃金でも一般的なアルバイトを経験し、それでまともな金を得るのもいいかもしれないと思えた。  それに、そろそろマリアに本当の意味で恩を返したい所だ。 「本当に俺に出来る?」 「出来ないことは提案しません。自信を持って下さい。ただ、アキラが嫌なら無理強いは出来ません。アキラにはアキラの好きな生き方をする権利があるのですから」  あくまで決断はアキラに委ねるマリアの期待に応えるべく、アキラは未知の世界への不安を打ち消して頷いた。  翌日マリアと共にアキラが訪れたのは、大通りから一本南の中通りに面した二階建ての小さなビルだった。  レンガ造りでレトロな雰囲気の漂うその建物に入ると、立派な一枚板のカウンターの奥にロマンスグレーの優しそうな紳士が立っていた。 「おじい様、おはようございます」 「あぁ、おはようマリア」  目が無くなるほど細めて笑顔を見せたその紳士は、アキラの姿を確認して同じように笑顔を向けた。 「きみがアキラ君か。聞いていた通り、とても優しそうな人だ」  そう形容されたことのないアキラは戸惑ったが、その言葉に薄っぺらさは感じられなかったため素直に礼を言った。  マリアには血の繋がった家族は居ないと聞いていたし、同時にマリアの祖父の友人ながら「おじい様」と呼んでいるという情報から、マリアのいうところの“家族みたいなもの”ではあるのだろうと予想出来た。  何よりそんな背景を知らずともマリアと雰囲気がよく似ていた。 「おじい様もきっと驚きますよ。アキラの淹れるお茶は世界一だもの」 「ははは、それは楽しみだなぁ」 「だから大袈裟だよマリア」 「そう謙遜しないで下さい。私はすぐにでもお茶を頂きたいところですが、その前にアキラ、着替えましょう」 「え、あぁ……ちょっと待って」  アキラの手を引きカウンターの奥に行こうとするマリアを制し、深呼吸をしたアキラは、そして男性の目を真っ直ぐに見た。 「何もわからず、何も出来ないですが……早く覚えられるように努力しますので、ご指導の程よろしくお願い致します」  学校もあまり行かなかったし、社会人経験もない。  汚くて乱暴な世界で育ったアキラにはマリアを真似るしかなかったが、たどたどしくも丁寧に言葉を紡ぎ、深く頭を下げた。  糊の効いた白いシャツと上質な黒いスラックスがアキラの制服だった。  マリアの“おじい様”――この店のマスターに初日に淹れた紅茶を認められたアキラは、即戦力として扱われた。常連客が九割で出入りも落ち着いているからこそ、時間を見つけてはひとつひとつマスターに丁寧に教え込まれた。  接客の基本は勿論、今までアキラが誰にも教わることのなかった人としての常識や大人に必要なマナーまでも呆れたり蔑むことなく教えてくれるマスターに応えようと、アキラも最初の宣言に違うこと無く真摯に取り組んだ。  マリアは自分の仕事が忙しそうだったが、合間に客としてアキラの様子を見に来た。  その度に成長している自分を褒められることが嬉しかったし、帰宅後マリアと過ごすティータイムの中で喧嘩の傷が殆ど消えたことを喜ぶマリアのために、もう夜の繁華街に行こうとも思わなかった。  篤志ともずっと会っていなかったが、元よりあの五月蝿い街で顔を合わせては悪さをするだけ。互いに束縛も干渉もしていない関係だったのだから、このまま疎遠になってもいいと思っていた。  しかし、それをよしとしない人間もいた。  今までアキラが喧嘩をしてきた相手の中には、リベンジを図ろうとアキラを探す連中もいるのだ。勝ったほうの記憶には残っておらずとも、倒された男の中ではアキラは忘れられない敵だ。  それは平穏な日々が続き、このままこうして穏やかな生活が続くのだろうと思い始めた矢先の出来事だった。マスターに頼まれた買い物を済ませて店に戻る途中だったアキラは、突然背後から頭を殴られ倒れた。  激痛と薄れ行く意識の中で確認したのは、鉄パイプを持ってニヤニヤといやらしく笑う二人組の男。  いくら記憶を辿ってもその二人組に覚えがなかったが、続けて腹を数回蹴られている間にアキラの思考は途切れた。
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