溢水

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 千春に見せつけるかのように腕を絡めてくるマリアに、アキラは内心穏やかではなかった。  いつも深い意味を持たずにスキンシップを図るマリアには心を乱されているが、こんな風にあからさまに男女を意識させる行為には慣れていない。いつもより近いマリアの顔に見惚れる暇もない程心臓が五月蝿く騒ぐ。  そんな様子からも、千春にはアキラからマリアへの感情がとても大きいことを改めて知らされることとなり些か不満ではあったが、似合いの二人に文句は言えずにいた。  何よりこれからお腹の子の父親である“晶”に会い、このことを打ち明けなければならないのだ。  優しそうなアキラに託すことが出来ればどんなに良かっただろうと考えながらも、信用しきれない晶に受け入れてもらうことが出来れば幸せになれるのだろうかと想像してみる。  千春の不安が伝わったのか、マリアがクスリと笑みを漏らす。 「大丈夫ですよ須田様。晶さんが抵抗を見せたら、私がそうしたように裁判をちらつかせればいいのです。きっと彼は対応してくれます。それに須田様、貴女はとても想像力が豊かですから。晶さんとの幸せな家庭を想像していれば、いつしかそれが現実だと思えるようになりますよ」  口調こそ柔らかいものの、千春はそれを皮肉だと受け取った。  しかし反論出来る程立場が良いとも思えず、やり場のない苛立ちをハンドバッグを持つ手に込める。  マリアが晶を呼び出したという店の前で、千春は頭を下げた。  家を出る前にマリアに書かされた念書があり、今後意図してアキラやその周囲の人間に近付かないことを約束してしまった千春は、泣きそうな顔をしながらアキラを見つめた。 「……もう本当に会えないの……?」 「そもそも、ケーキ屋で“会っていた”のではなく“遭遇していた”だけに過ぎないので」 「……そうだったね。でも、好きだったの」 「ありがとうございます。応えることは出来ませんが」 「いつも買っていたチーズケーキは……」 「マリアの大好物だから買っていたんですよ」  本当に全て自分の妄想が現実との区別がつかないくらい大きくなってしまっていたものだとわかり、泣きながら千春は呟いた。 「迷惑かけて、ごめんなさい……」 「えぇ、晶さんが待っていますよ。早く行ってあげて下さい」  おずおずと店に入る千春を見届け、マリアとアキラはイミテーション・ハーツへと歩き出した。 「意外だったね」  店番をしているミイナがそう口にすると、書類をまとめ終えたユタカが聞き返した。 「意外?」 「うん、マリアさん。なんかさ、須田様に厳しいっていうか……やっぱアキラのことは特別なのかな?」  目を輝かせるミイナだったが、ユタカは冷静に答える。 「多分、ミイナが思っているような感情ではないんだと思うけど……大体、マリアさんはいつもまともな依頼人には優しい対応するけれど、そうじゃない相手になら容赦無いじゃん。それに今回の依頼人はマリアさんなんだから、須田様に厳しいのは状況的にも妥当だと思うけど。彼女ちょっと……ヤバそうだったでしょ」 「確かにヤバかった! あの目、あれ病んでる目だったよ!」 「まぁでも、恋愛感情の有無は別として、アキラのことが特別なのはあるだろうね」 「でしょぉ!? っはー、ユタカの考えたシナリオ通りにやり取りしてたら、アキラなんか興奮して仕事どころじゃないんじゃない?」 「はは、そうかもな」  可笑しそうに想像しているミイナを見ながら、ユタカも苦笑する。  アキラのマリアへの恋心はユタカが初めて出逢った時から明らかであったが、それを知ってか知らずかマリアからの気持ちはユタカにも見えなかった。たまにマリアから甘えたり、ケーキを食べさせたりといった行動も見受けられたが、その対象はアキラに限ったことでもない。 「マリアさんがアキラとくっついたら、俺失恋だわ」 「はぁ? 此処の男共はみんなしてマリアさん狙いか! 女はアタシも居るんだよ!?」 「いや、別にアキラみたいにホンキで好きなわけじゃないけどさ……」 「あーぁ、アキラはまだしも、ユタカはアタシとペアで仕事してるのにぃー?」  冗談めかして拗ねるミイナに、ユタカは呆れたように言い返す。 「それを言うなら、此処の女性達はいい男が二人も揃ってるのに興味なしじゃないか」 「ソンナコトナイヨー」 「棒読み」 「あはは、いい男だとは思ってるって! この前の慰安旅行の時マリアさんだって言ってたじゃん。『素敵な男性を二人も連れていたら他の女性に怒られますね』~って」 「マリアさんはいつもアキラのことも俺のことも褒めてくれるけどさ、興味はなさげじゃん」 「そだねー。アタシもちょっと、タイプじゃないし」  ミイナがどちらかに恋愛感情を抱いていれば、それはとても仕事がやりづらいだろうとユタカは考えた。恋愛に対して猪突猛進なところがあるだけに厄介なことになり兼ねない。 「まぁ、特別意識されたいわけじゃないんだけどさ……」 「でしょう? アタシも。なんかこの家族みたいな友達みたいな、よくわかんないんだけど。今の感じがすごく心地良いからね」  だけどアキラはいつも不憫だから想いが通じればいいのにね、とミイナは加えた。  大通りから一本入るだけで街の明かりは一気に遠い世界のものとなり、街並みに合わせたレトロな街灯がポツリポツリと等間隔で照らすだけの薄暗い道になる。  女性を一人で歩かせるには心配になるこの道も、想いを寄せる相手と並んで歩くのであればたちまちロマンチックにすら思えるから不思議だ。アキラは、既に腕を組むのをやめて肩を並べるだけのマリアの横顔をぼんやりと眺めていた。 「よかったですね」  急にアキラのほうを向き笑顔を見せるマリアは、そして続けた。 「最初、本当にアキラが父親だったらどうしようと思いましたよ」 「そんな人が居るなんて素振り見せたことも無いでしょう……」 「だって、別に恋愛を禁止しているわけでもないですし、皆さん大人ですからその辺りは自己責任ですし……あえてアキラが良い人が居るのだと私に言うこともないでしょう?」 「…………まぁ」  反論したいことはあったが、いつものことなのでアキラは大人しく頷いた。 「でも、アキラが巻き込まれただけであれば、私はどんな手を使ってでもアキラを助けましたよ」 「そうですね、実際助けて頂きました。ありがとうございます」 「アキラは女性に好かれるタイプなのですから、もっと自覚を持って下さいね……私は心配でなりません」 「えっ、それってどういう――――」  どうせオチがつくことは今まで嫌という程経験しているアキラだったが、それでもいちいちマリアの言葉に期待を持ってしまう。そしてすぐに気付き落胆する準備をするアキラに、マリアは先程千春に見せたように腕をとって体を寄せた。 「……アキラがいなくなってしまったら、私は誰のお嫁さんになればいいんですか」  俯くマリアの表情はアキラからは見えなかったが、この言葉をどうやっていつもの親愛の意味に捉えればいいのかわからなかった。 「あまり一般の方に理解していただける仕事でもないですし家事も苦手ですが、アキラになら甘えられます」 「……そういえばマリアは家のことは全然出来ませんでしたね」 「そうですよ。私の夢がお嫁さんだというのは以前言いましたが、旦那様になってくれそうな人は現れません。アキラは私がお嫁さんに行けなかったら貰ってくれると言ってくれたでしょう?」  冗談なのか本気なのか。  どちらでも構わなかった。アキラは大きく肯いた。 「だから、アキラは他の女性には簡単には渡せません」  イミテーション・ハーツのビルの前でそう言われたアキラは天にも昇る心地でドアに手を掛けたが、そしてニッコリと笑顔を見せるマリアは一言付け加えた。 「まぁ、ユタカも私みたいな女でもいいと言ってくれていましたが」 「――――……っ……ユタカぁぁあああ!」  珍しく声を荒げるアキラは乱暴にドアを開け放ち、その会話を知らずに呑気に迎え入れたユタカに泣きつくように掴みかかったのだった。
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