充実

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「景子、こっち」  時計の針は20時を指していた。週末の街はいつも以上に人が溢れ返り、その声の主を景子が見つけるまでやや時間を要した。 「お待たせ、仕事が長引いちゃって……」 「あ、えっと……雅也(まさや)?」 「ん? どうしたの? 改まって」  そう返事をするのだから彼は“雅也”なんだろう。しかし景子が初対面の男性をいきなり呼び捨てるのは初めての経験で、なんだか一人気まずい思いをしていた。 「お腹すいたでしょ? 景子の好きなあの店で夕食にしようか」  雅也は自然に車道側を歩き「最近急に冷え込んだよね」などと言いながらそっと景子の肩にストールをかけた。景子が好きな淡い黄色のストールは、丁度今日の服装と合っていた。 「コレ……」 「来る途中、景子に合いそうだなって思って買ってきたんだ」 「――ありがとう」 「どういたしまして」  微笑む雅也は、誰が見ても爽やかな好青年で彼女想いの理想的な恋人だった。そして着いたのは景子がよく利用するフレンチの店で、いつも座る窓際の角の席を選び、更には毎回必ず頼むワインを注文した。 「すごい……私の好きなワインまで……」 「何? 今日なんか景子おかしくない? もしかして疲れてる?」 「え……?」 「いつもこうしてデートしてるんだからこれくらい覚えるよ。それにしてもその時計、やっぱりよく似合ってる。つけてくれてるんだね」  これは私が“彼氏にプレゼントしてもらった”設定で自分で買った腕時計だ。きっちり設定に忠実な雅也の言動は、まるで本当に今まで一緒に過ごしてきた恋人のようだった。  景子があの日契約をしてから一週間の期間彼の“納品”を待ったが、その間調査されたのだろう。各方面のプロが居るというマリアの言葉を思い出す。確かにこんなに自然で、当人同士で打ち合わせのないやり取りはそこらのサクラじゃ不可能だろう。 「ね、今月末の飲み会なんだけど……無理言っちゃってごめんね」 「何言ってるんだよ。景子が我儘いうことなんてないんだし、それくらいならお安いご用だって」 「本当? 実はね、会社の皆は私に恋人なんていないんじゃないかって噂してるみたいなの」 「じゃあいい機会じゃないか。こんなに仲が良い彼氏がいるんだって見せつけてあげればいいよ」  白い歯を見せて笑う雅也は、実に景子好みの顔立ちをしていた。いや、顔立ちだけじゃない。身長も理想的だったし、仕事や性格も。大手の商社に勤める彼は、仕事で忙しいにも関わらずこうして週末は景子との時間を取ってくれる。気が利き、優しく穏やか。爽やかな短髪は30歳には見えない若々しさを際立たせ、変に着崩さず背伸びもしていないスーツは好感しか与えない。  そして景子の設定の中では、交際を始めて4年が経とうとしている。いつまでも変わらぬトキメキに加え、長年一緒にいる安心感もある。 「そういえば、来週景子の誕生日だね。当日は仕事で難しそうなんだけど……」 「えっ、いいよいいよ! もうそんな嬉しいトシでもないし」 「そうは言っても、僕にとっては特別な日だよ。来週末、実はもうレストラン予約してあるんだけど景子の都合聞いてなかったからさ」 「……嬉しい。週末は雅也に会うために空けてるんだもん、大丈夫に決まってるよ」  景子の好きな料理を食べ、景子の好きな展望台に向かう。冬が近付いている今の季節の夜景が景子の一番のお気に入りだ。普段は一人で見る景色も、まるでいつも隣に居たかのように雅也は自然にそこに居る。 「もう閉まる時間だね」 「うん……」 「ホラ景子、また見に来ればいいでしょ?」 「そうだね」  この後はどうするのだろう。今日のデート中ずっと考えていたのは、マリアの言葉。景子の設定では、週末はどちらかのマンションで二人で過ごしている。これまで設定に忠実にデートをこなしてきた雅也だ、当然この後も……―――― 「そうだ、ウチ来る前に買い物していかないと」  雅也の言葉に、景子は内心穏やかじゃなかった。しかし何処で誰が見ているかもわからない。平静を装って聞き返す。 「……何か買うものあったっけ?」 「ホラ、景子のクレンジング。この前使い切っちゃったでしょ?」 「そ、そうだったね。あ、飲み物とかは?」 「一応いつものワインとミネラルウォーターはあるけれど、何か飲みたいのある?」 「ううん、それがあれば大丈夫」  あまりにも自然過ぎる雅也の言葉が、逆に不自然に思えてきた。つい数時間前までは顔も合わせたことのなかった赤の他人が、さも毎週通っているかのようにクレンジングが切れたと話す。家で普段飲んでいる飲み物も用意されている。  完璧過ぎて怖くも思えたが、今の会社での立場が崩れるのと秤にかけた時後者のほうが怖かったため、立派なタワーマンションへと足を踏み入れた。  この非日常を日常だと必死に思い込む。  部屋の中でも外にいる時と変わらずに“恋人ごっこ”は続いた。  この辺りを一望出来るリビングの大きな窓。二人並んで暫しの無言が続くと、どちらからともなく口付けを交わしていた。正確には契約上景子から行動を起こさなければそのようなことは起こらないが、それを自然に引き寄せられたかのように振る舞うことすら、雅也は完璧にこなした。  灯りを消した後の行動は自分でも驚いた。  約10年ぶりの“恋人”。そういうことは初めてではないものの、久し振りの時間をごく自然に過ごせた。雅也の腕枕で眠りについた景子は、翌朝コーヒーの香りで目覚める頃にはすっかり“雅也の恋人”である状態を受け入れていた。  夢のような時間は週末だけではない。平日、仕事の合間、就業後、二人は電話やメールを重ねた。  景子が「またあのオヤジ自分のミス人のせいにしてきた」と言えば、雅也は「例のアルマーニで全身固めてる部長?」と答えたし、逆に「あの受付嬢からのアプローチどうなった?」と聞けば、「彼女が居るってハッキリ断ったよ」と返してくれる。  なるほどサクラなんかじゃない、これは立派なイミテーション――いや、本物以上に素晴らしいと喜んでいた。  予定通り週末には景子の28歳の誕生日をいつもより高級そうなホテルのレストランで祝い、デザートが出てきたタイミングで雅也はプレゼントを手渡した。 「開けていい?」 「勿論」  少し緊張した面持ちの雅也に淡い期待を抱きつつその小さな包みを開けた景子は、そして予想通りの幸せなプレゼントにうっすら涙さえ浮かべた。 「もう付き合って4年でしょ? 僕と結婚してくれませんか?」 「……はい」  小さなダイヤが光る7号サイズの指輪は、景子の指にピッタリだった。 「夢みたい」 「そんなに喜んでもらえるなら、もっと早く言えばよかった……」  照れくさそうに頭をかく雅也が愛しくて、あと二週間もすれば契約が終了してしまう事実も忘れかけていた。その夜はレストランが入っていたホテルの一室を雅也がリザーブしていたため、そこで過ごした。  楽しい日々はあっという間に過ぎてしまい、契約最終日――目的の飲み会の日を迎えた。  仕事で少し遅れてやってきた雅也は、誰もが羨み、そして納得する“彼氏”だった。時計をプレゼントした時の話も、いつも飲み会が心配だという話も、ひとつの矛盾もなく受け答える雅也。誰しもがそれをイミテーションだとは思いもしなかったし、景子ですら本物の彼氏であると錯覚していた。 「ねぇ、景子ちゃん……ごめんね」  飲み会の合間にトイレの鏡の前で一緒になった早苗が謝る。 「ホントはね、景子ちゃん全然彼氏紹介してくれないしウソついてるんじゃないかって思ってたの。でも、最近すごく幸せそうなオーラ出してるし、今日も実際雅也さんに会うことも出来たし……最近様子が変わったのって、やっぱりそれが理由かな?」 「指輪? ――……うん、この前の誕生日の時、プロポーズしてくれたの」 「えぇっ!? おめでとう!! そっか、そんなことあったなら幸せオーラも隠しきれないよね」 「まだ皆には内緒ね?」 「どうして? 折角今日彼も来てるんだし言えばいいのに! あ、雅也さんに聞いちゃおうっと♪」  興奮気味に席に戻った早苗は早速雅也にその確認を取った。照れくさそうに頷く雅也を見て、早苗が皆の前で景子の婚約を発表した。少し間を置いて席に戻った景子だったが、同僚達に囲まれて根掘り葉掘り聞かれる羽目になった。面倒くさそうなポーズをとりつつも、景子は内心満たされていた。  こんなにも皆に祝福され、注目され、羨望の眼差しを独り占めに出来る。  それは他ならぬ雅也が相手だからであり、景子は熱望していた。  ――彼との日々がずっと続けばいいのに――  二次会に誘われた二人だったが、次の日雅也が仕事だということで抜けることにした。  ほろ酔い気分ですっかり契約期間のことを忘れていた景子だったが、「今日は送って行って僕は帰るね」という雅也の言葉に現実に引き戻される。 「ねぇ、やっぱり泊まって行かない?」 「ダメだって。明日は朝早いって言ったでしょ?」 「ウチから出勤すればいいじゃない……」 「――仕事だから」  その言葉にはイミテーションであるという事実が含まれているのだろう。それ以上景子は強く言えず結局契約終了時間の10分前に二人は別れた。  1分でも時間を過ぎれば赤の他人に戻るのだとマリアは言ったが、景子にはそれが信じられなかった。  だってプロポーズされ指輪も貰い、こんなにも充実した日々を送ってきたのだ。相手は仕事で付き合っていたのかもしれない。だけど1%の気持ちもないまま付き合えるだろうか。  彼と離れたくない気持ちはみるみる膨らみ、気付けば雅也のマンションに向かっていた。  インターホンを押してみても反応はなく、コンビニにでも寄ってまだ帰っていないのかもしれないと思いエントランスで待ってみるも、帰宅する気配はない。  携帯は何度かけても繋がらず、メールも宛先不明で返ってくるばかり。  全てが夢だったのだと、あくまで作り物だったのだと頭でやっと理解した頃、最後にもう一度と望みを込め雅也に電話をかけた。数回のコールの後、聞き慣れた恋人の声が届いた。 「……はい」 「も、もしもし雅也ッ!?」 「あの、さっきから電話やめてもらえません? 今何時だと思ってるんですか?」  それは聞き慣れた声。しかし、知らない男だった。  聞いたこともないような気怠そうな口調は暗に迷惑だと告げている。 「でも、雅也は……私が寂しい時は時間なんて気にしないで連絡くれればいいって……」 「それは貴女の恋人の台詞でしょう? 俺は貴女のことなんて知りません。そもそも俺は雅也という名前ではありませんので」  一人称や名前までも少し前まで一緒に過ごしていた人とは別人になっている。  この人は誰なんだろう。雅也の携帯に電話したのに、こんなに突き放した物言いの男は誰? 「……そんな」 「じゃあ、もう二度とかけてこないで下さいね」  電話を切られ、ただ茫然と立ち尽くしていた景子だったが、イミテーション・ハーツへと走り出していた。
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