家族

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「可愛い可愛い私のマリア。愛しているわ」 「アンナにそっくりで、本当に可愛らしい子だ。二人とも愛しているよ」 「わたしも、パパもママも、あいし……」  両親を真似て応えようとしたマリアの小さな唇に、アンナが人差し指をそっと当てた。 「マリア。日本ではあまり子どもから親にその言葉は使わないみたいなの。だからマリア、貴女が大きくなって、自分で選んだ特別な人にその言葉をかけてあげて」 「……?」 「アンナ、まだマリアにはわからないよ」 「あら、そうかしら……じゃあそうね、マリアが大人になった時に、パパとママがそうしたように……大切で、一生そばに居たいと思った相手に言うのよ。これは魔法の言葉なの。幸せになれる言葉」 「まほう!?」 「そうよ、素敵でしょう?」 「うん!」  寒さで浅い眠りから覚めたマリアは、濡れている頬に昔の夢を見て泣いていたのだと知った。  暖房の壊れた物置代わりの空き部屋の片隅、小汚い破れた毛布がマリアの寝具。ふかふかのベッドも暖かい暖炉も、今は母親が違う幼い妹の物になっていた。 「失礼します。マリア様、今日は旦那様が戻られる日ですので……」  控えめなノックの後に顔を出したのは、マリアの母親がアンナだった頃から居る若い家政婦だった。名前は真代といい、まだ二十代前半だとマリアは聞いていた。  マリアを要らない子扱いするこの屋敷内で、唯一以前と変わらない態度で接してくれる女性。しかし、表立ってそれをすることは真代の職を失いかねないと考えたマリアの“お願い”により、表面的には他の者と同じようにマリアに冷たくあたるフリをしている。 「わかりました……」  世間体――もっと言えばマリアの父である正嗣(まさつぐ)の目があり、マリアは身なりだけは常に綺麗にさせられていた。正嗣の血を引いた黒い艶やかな髪の手入れに、アンナの血を引いた端整な容姿を活かすべく揃えられた華やかな衣服は、家の力を見せつけるように上質なものだけが選ばれていた。  外から見たら何不自由なく育てられている社長令嬢。  しかしその実、継母による徹底的な虐めによりマリアの心が晴れる日などなかった。  母のアンナの死についても、子どもながらにマリアは疑問を抱いていた。病気もせず健康に生きてきたことが自慢だと笑っていた母が、ある日を境にみるみる痩せ細っていった。  二人の家政婦を新たに雇い、食事係が変わった頃からだとマリアは記憶している。その時雇われたのが真代ともう一人、マリアの“新しいお母さん”になった祥子(しょうこ)だった。  ただの食事係だった家政婦の祥子が正嗣の後妻になるのに、そう時間はかからなかった。  中学生になろうとしていたマリアは、アンナの死と祥子の動きがどういう関わりを持っているのか、疑問というよりは確信すら持っていた。 「おかえりなさい、お父様」 「おかえりなさい、ぱぱー!」  普段は同じ部屋にいるだけで叱られるが、父が出張から戻る時は幼い妹・玲香(れいか)と揃って出迎える。その後ろから貼り付けただけの笑顔で祥子も出てくると、正嗣はとびつく玲香を抱き上げながらマリアの頭を優しく撫でた。 「ただいま、マリア、玲香……祥子も」 「えぇ」 「私が居ない間、何も変わりはなかったかい?」  マリアは黙って頷いた。  変わりなんてない。変わらず孤独で辛い日々が続いているのだから。 「れいかね、ぱぱのにがおえかいたのー」 「おぉ! 上手に描けているね。玲香は才能があるかもしれないなぁ」 「えへへー」 「どうだいマリア、学校は楽しいかい?」 「はい。きちんと言いつけ通り成績もトップをキープしています」 「……言いつけ?」  マリアの言葉に眉を顰める正嗣に、慌てて話題を変えようと口を挟む祥子は、マリアをきつく睨むのも忘れない。きっと後からお仕置きされるんだろうと予想するマリアは、今日はとても寒くて頭も痛いからなるべく痛くないお仕置きにして欲しいな、などと考えていた。  それは、庭に桜の花が咲きはじめた頃だった。  学校帰りのマリアの前を無邪気に走り回っていた玲香は、マリアの目の前で盛大に転んでしまった。自由に育てられた玲香は我慢を知らない。大声を上げて泣く幼い妹を見て、マリアは酷く悩んだ。  話し掛けては自分が叱られる。  だが、こんなに小さな子が膝から血を流して鼓膜が破れそうな程の大声で泣いているのだ。無視することなんて出来るだろうか。  躊躇いつつも鞄からポーチを取り出したマリアは、玲香の膝をティッシュで軽く押さえ血を拭った後、そっと絆創膏を貼った。  服の上からでは見えない所によく怪我をしたマリアは、傷の手当ては慣れている。転んで出来た傷程度なら手当てと呼ぶまでもない。 「もう泣かないで。今は消毒液までは持っていないから、家に入ったらママかお手伝いのお姉さんに言って一応消毒して貰うといいわ」 「…………おねえちゃん、ありがとう」 「ふふっ、ありがとうが言えるなんていい子ね。いい子はもう泣かないもんね?」 「――うんっ、れいか、いいこだからなかない」  マリアがどんな目に遭っているのか、幼い玲香には知る由もなかった。母親が近付くなと言うからマリアに話し掛けることはなかったが、その理由までは知らない。  優しくされて喜ぶ玲香だったが、先程の泣き声を聞きつけて飛んできた祥子はその傍らにマリアがしゃがんでいるのを見た瞬間、鬼のような形相で手を上げた。  ――――……殴られる。  よく響く頬を打つ音。  身構えて目を閉じていたマリアは、しかしいつになっても痛みに襲われることはなく、恐る恐る目を開けた。  するとどうだろう、自分の代わりに玲香が少し離れたところまで飛ばされていた。  祥子の平手はとても力が強い。家政婦をしていた時には力仕事もこなしていたくらいなのだからそれも当然だろう。加えてマリアへの憎しみを込めたそれは、体の大きいマリアですら身構えないと倒れ込んでしまう程で、まだ幼稚園にも上がらない小さな玲香にはどれほどの衝撃だろうか。  慌てて駆け寄ろうとするマリアの横で、マリア以上に顔を蒼くして叫んだのは祥子だった。 「何故!? なんで玲香……ッ!!」  石畳の上で頭を強く打った玲香の頭からは真っ赤な血が溢れ地面を染めていた。  打ち所が悪かったのもあり病院に運ばれた時には既に息は無く、マリアは酷く後悔していた。玲香に優しくしたから、あの子は咄嗟に自分をかばって前に出たのだろう、と。  泣いているあの子を無視して通り過ぎていればよかったと何度も悔やんだ。  だけどマリアが悲しみ泣く暇もない程に、自分の手で最愛の、ただ一人の娘の命を奪ってしまった祥子が狂ってしまった。  現場に他に人が居なかったのをいいことに、祥子はマリアが玲香を突き飛ばしたのだと証言した。  玲香に残っていた痕等から早い段階でマリアの無実は証明されたものの、ヒステリックに泣き叫ぶだけの祥子を問い質すことも出来ず、結局事故として片付けられた。  玲香を失った祥子は、更にマリアにきつく当たるようになった。  祥子にとってマリアは邪魔な前妻の子。マリアが居る限り正嗣の一番は血を分けたマリアだと考えており、マリアが居なくなれば自分の地位は守られると信じていた。 「玲香じゃなくて、お前が死ねばよかったのに!」  それは呪文のように顔を合わせるたびに言われた言葉。いつしかマリア自身もそう考えるようになった。 「じゃあ、殺せばいいじゃないですか……私のお母様、アンナを殺したみたいに」 「同じように殺してやろうと思っているのに死なないのはお前じゃない! 何故死なないの!?」  言われて、やはり暴力だけじゃなく毒を盛るやり方も試していたのだと知ったマリアは、最近は食事を与えられる回数が増えていたことを思い出した。  今までは、傍から見てあからさまに痩せこけないよう計算されながら食事を抜かれる日も多かったが、ここのところ毎晩真代が食事を運んできてくれていた。  何度かマリアの元に運ばれてくる前に同じメニューの食事を真代が捨てているのを目撃したことがあり、それをマリアは、捨てるように命じられた真代がその後厚意で用意してくれているのだと思っていたが、毒が盛られていることに気付いて用意し直してくれていたのだろうと想像出来た。 「……毒なんかじゃ死ねないのです」 「化け物なの!? あぁ、正嗣さんの血が半分流れていようと、お前はあの女の血も流れている! 成長するたびにそっくりになっていくのが気持ち悪い!」  アンナに似れば似るほどマリアは嫌われた。祥子にとって憎い女。正嗣が愛した女。 「おかえりなさい、お父様!」 「お疲れ様です、正嗣さん」  それでも正嗣が帰宅する時には気持ち悪い笑顔を貼り付けて一緒に出迎える祥子。マリアは何も無いフリをすることに酷く疲れ、平気な態度を演じることに限界を感じていた。 「どうしたマリア、最近元気がいいじゃないか」 「そうですか?」 「あぁ、学校が楽しいのかい?」 「……えぇ、とても楽しいわ!」 「――――そうか。久し振りにじっくりマリアの学校での様子を聞きたいなぁ。後で私の書斎に来なさい」  マリアがこうして正嗣と向き合って話すのは何年振りだっただろうか。アンナがこの世を去ってから、正嗣はその寂しさを仕事で紛らわそうと働き詰めた。  その結果、元々上向きだった会社の利益は更に向上し資産は増えたようだったが、マリアにはどうでもよかった。 「……マリア、寂しい思いをさせてしまったね」 「気になさらないでお父様。私ももうすぐ高校生です。寂しくなんてありません」 「そうか……いや……――なぁマリア、これ以上無理をしないで欲しい」 「……なんの話でしょうか」  正嗣は気丈に振る舞うマリアの作られた笑顔をしばし見つめ、いつの間にか皺の増えた骨張った手で顔を覆うと、小さく肩を震わせた。 「泣いているのですか……?」 「私が……気付かなかった私が悪かった。辛かっただろう……」 「え、な、何を……?」 「――――愚かな私も、流石に玲香の死には疑問を抱いたんだよ。それから調べてみたんだ。マリア、痛い思いも、辛い思いも、どうして一人で抱え込んでいたんだ……私はそんなに信用ないかい?」 「……っ」  マリアは言葉を呑んだ。  正嗣が何処まで知ったのかはわからなかったが、おそらく家政婦達が口を割っているならば殆どの事実を知ってしまった筈だ。 「……知られたくなかったのです……お父様は、祥子さんのことも大切だったのでしょう? 私のことも……大切に思ってくれていたのはわかっていたので……大切な人が、大切な人を傷付けているなんて、私なら知りたくないもの……」 「それでも! 祥子のしてきたことは許されないことだ……私はマリア、きみを守る義務がある。深く愛した女性との大切な娘なのだから、自分の血を分けた、大切な……っ! ……辛い時にいつも以上に元気よく振る舞うところはアンナにそっくりだね……アンナも死ぬ前、今のマリアのような空元気をよく見せていたよ……――――」  苦しそうに涙を流す正嗣は、マリアを抱き締めて何度もごめんと呟いた。 「私には、こうして私のために泣いてくれるお父様が居ます。真代さんも味方してくれています」 「……私は、祥子と離婚しようと思っているんだ」 「え……」  それはマリアにとっては願ってもない話だったが、同時に言い知れぬ不安に襲われた。正嗣も簡単にはいかないということは覚悟しているのだろう、苦い顔をして続ける。 「ただ、あの祥子だ。きっと離婚が成立するまでに時間を要するだろうし、マリアを危険にさらしてしまうと思う。だから、少しの間だけこの家から避難して欲しいんだ」 「……避難?」 「あぁ、今夜この家にお客様が来る。その人が帰る時に、一緒に連れて行って貰う手筈は整えてある。アンナのお父さん――マリアのお祖父さんの古くからの友人で、コマロフさんという人だ。お祖父さんはマリアが幼い頃に亡くなっただろう? その後もコマロフさんはマリアの成長を気にして手紙をくれていたんだ。昔よく遊んでもらったのを覚えてないかい?」 「いえ……コマロフさん……外国の方ですか?」 「そう。お祖父さんもロシア人だったろう? コマロフさんもお祖父さんと同じように、日本人の女性と結婚するため日本に越して来た人だよ。とても流暢な日本語を話すから何も心配要らないよ」  マリアがクオーターだというのは幼い頃聞かされていた。ロシアと日本のハーフのアンナと、日本人である正嗣との間に出来たのがマリア。言われてみれば幼い頃――まだ幸せだった頃、よく遊んでいたおじさんがいた気がした。  コマロフという男とはアンナが元気だった頃は家族ぐるみの付き合いをしていたのだと正嗣が説明する。 「彼はマリアとの生活をとても楽しみにしているよ。心配しないで、問題を片付けたら、必ずすぐに迎えに行くから」  正嗣が自分のために動いてくれているのだと知り、深い絶望の中に居たマリアの心に一筋の光が射した。  全てが片付けば、昔のように――もうアンナは居ないが――幸せな日々に戻れるのだろう。  しかし大きな黒い瞳に希望を宿したマリアの思い描いた近い将来の情景は、その直後ノックもなく部屋に入ってきた祥子によって壊されることになるのだった。
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