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マリアが誰に対しても臆すること無く笑顔を振りまくようになるのにそう時間はかからなかった。
言葉遣いは元々丁寧で尊敬語や謙譲語を正しく使い分けるわけではなくとも失礼になる間違いはしなかったし、育ちの所為か振る舞いは優雅で美しくゆったりとした動作がクラシカルな店の雰囲気によく合っており、客からの評判も良かった。
コマロフの影響で紅茶や珈琲は以前から好きだったが更に詳しくなり淹れ方も様になった頃、仕事帰りの真代が店に立ち寄り溜息を漏らした。
「マリア様は本当に何でもこなせて羨ましい限りです」
「これも真代さんとおじい様のお陰です。私一人では何も出来ませんでしたよ」
マリアが淹れた珈琲を飲みながら、もう一度溜息を吐く真代。
「……何か困ったことが? お疲れのようですが」
「えぇ……仕事が急に増えてしまって、事務仕事が終わらないんですよ」
真代は派遣会社の人事をやっており、最近会社が新しい分野にも手を出したことで一気に仕事が増えたのだと言う。夜遅くまで営業しているコマロフの喫茶店に訪れたのも久し振りで、ここ数日は日付が変わる前に帰ることが出来なかったと嘆いた。
「人材派遣の会社ならば、登録している方をアルバイトに雇っては如何ですか?」
「そうしたいのも山々なんですが、ありがたいことに登録している人材は皆派遣先が決まっていて。それもあってこちらの仕事も倍増したんですけれどね」
「……私に出来ることはありますか?」
手伝いを申し出るマリアは喫茶店でのアルバイトで人と関わることに楽しさを見出し、更に広い世界を見てみたいという興味を持っていた。しかし真代が首を横に振る。
「マリア様にそんなことをさせるわけにはいきません! 大切なお嬢様なのですから。うちの会社は残業も多いですし、理不尽なクレーム処理もあれば急に居なくなってしまう人間の穴埋めに走らなければならないこともあるのです。お気持ちだけありがたくいただきます」
「ならば真代さん、春から新入社員を採ればいいですよ。あと一ヶ月もしたら四月でしょう?」
「それも考えて募集をかけてはいるのですが、条件が合う人材が来なくて」
「私が受けてもいいですか?」
高校卒業後は大学に進学せず、暫くはコマロフの店を手伝いながら他に興味を持つ仕事が見つかればアルバイトでもしようと考えていたマリア。コマロフは基本的にマリアの考えに反対はせず、マリアのペースでやりたいことをすればいいと言っていた。
「……勿論、受けることは可能ですが……」
「ご安心下さい。採用試験にパスするように手を回せなどと言いません。その代わり、私だからという理由で不採用にすることもやめて欲しいです」
「マリア様の成績や性格からうちの人事が落とすことはまずありえないと思いますが……」
いつまでも主の娘と家政婦という立場が抜け切らない真代には、マリアを温室の外に出したくない気持ちがあった。コマロフの元で働いていられるのならそれが一番安心だ。その真代の気持ちを汲んだコマロフが口を挟む。
「真代さん、マリアは存外強い子だよ。邪魔になるようなら遠慮せずに辞めさせて構わないから挑戦させてやってくれないかね? 真代さんとこに迷惑を掛けるようなら諦めさせるけれど」
「あ、いえ。マリア様の努力や実力は充分わかっていて、是非力を貸して欲しいんですが……夜も遅くなってしまいますし、何かと心配で……」
「――確かに夜遅くに帰宅するのはおじい様に迷惑をかけてしまいますね……ならば、もし雇っていただけることになったら一人暮らしをします。いいでしょう? おじい様。真代さん、頑張りますので面接の機会を下さい」
世間への好奇心を前に強引なマリアに押し切られる形で真代は頷き、数日後マリアの内定が決まった。
その日マリアは、ガラスの破片やゴミが散らばる路地裏を歩いていた。
マリアの勤める会社からも数人社員を派遣していた小さな印刷会社が夜逃げをしたといい、状況の確認のため現場に向かっていたのだ。八丁目より東側はあまり治安も良くなく、昔小さな仕事でも拾っていた頃に契約をしたというその印刷会社はお世辞にも立派な企業とは言えなかったが、それでも派遣社員への給料の支払に滞りはなく、夜逃げされるまで会社側は気に掛けていなかった。
「御免下さい」
少し奥まった場所にあるその雑居ビルは雀荘や金貸し業者等が数件入っており柄の悪い男達がうろついている中、小奇麗なスーツに身を包んだマリアは明らかに浮いていた。
「お嬢ちゃん、こんな場所に何か用かい?」
「こんにちは。お尋ねしたいことがあるのですが、よろしいですか?」
「お、おぅ」
見るからに危険な香りを纏った男を特別視するわけでもなく普通に会話をしようとするマリアに男は戸惑ったが、珍しい女も居たものだと興味を持った。
「こちらにあった牧田印刷さんに用があったのですが、事務所内はもぬけの殻です。何かご存じないでしょうか」
「お嬢ちゃんはどちらさんなの?」
「あ、失礼いたしました。申し遅れましたが、私は……――――」
もう慣れた手つきで名刺を差し出し自己紹介をしてにっこりと微笑むマリアに男もつられて笑う。
「そりゃーご丁寧にどうも。俺は吉原っていって牧田印刷の隣で金融業をしてるんだけどよ、牧田サンは相当苦しそうだったし、昨夜ガタゴトやってたからありゃー逃げたね」
「……そうでしたか……夜逃げというものは結構あるものなのですか?」
「そうだねェ、お嬢ちゃんみたいな立派なお仕事してる人間には理解も難しいかもしれないけどよ、この辺で細々やってるような会社には明日の飯の心配もしなきゃならねぇ奴もいるんだよ。派遣会社だっけ? 結構未払い残ってんの?」
「いえ、幸い当社への支払いは先月の締め日から今日までの日割り分と、あとは契約違約金くらいです」
「なら、それは諦めたほうがいい。ついでに損害賠償やら何やらは請求するだけ無駄だからやめておけ」
「そのようですね……吉原さん、ご親切にありがとうございます」
「いや、何。俺を怖がらずに普通に喋ってくる若い女なんてまず居ないから珍しくてさ」
「怖い? 吉原さんがですか? こんなに優しくて頼りになるのに怖がるなんてありえませんよ」
思ったことをそのまま口にしたマリア。吉原にもその言葉に嘘がないことが伝わったのか、豪快に笑いながらマリアの肩を叩くと、目の前の事務所にマリアを案内した。
「あれ? 社長、その女は?」
「えらい別嬪さんですけど社長のコレッスか?」
社員――というよりは“子分”のような男二人に出迎えられたマリアは、吉原にそうしたように名刺を渡しながら微笑んだ。
「牧田に用があったみたいなんだけどよぉ」
「あー、飛びましたモンね」
「この嬢ちゃんに、色々裏の世界を教えてやろうと思ってな」
「……裏の世界?」
連れて来られた理由を聞いていなかったマリアが首を傾げる。
「ホラ、良くも悪くもスレてない。これが可愛いんだけどよ、派遣会社なんてやってるなら色んな会社や人間を見ることになるわけよ。こういう世界があることも知っておいて損はないだろ?」
「わざわざ私のためにありがとうございます」
「――はー、ホントに素直な……」
吉原は男達と面白おかしく冗談交じりに自分達が身を置いている世界について説明すると、マリアは目を輝かせて真剣に話を聞いた。
昼時だったのもあり出前を取ることになり、初めての出前に興奮するマリアが事務所のドアをノックする音に吉原の方を向き自分が対応したいと申し出た。
「おぅ、受け取れ受け取れ。金はホラ、これで払え」
「はい」
満面の笑みでドアを開けたマリアの目の前には、ラーメンの代わりにナイフを持った男が立っていた。
男もまさかマリアのような女が居るとは思わなかったのか一瞬戸惑いを見せたが、すぐに厭な笑みを浮かべてマリアを捕らえると、顔にナイフを近付けた。
「……おいおい吉原さんよぉ、いつの間にこんなイイ女捕まえたのよ」
「――――これはこれは和泉サン。昼間っから物騒なモン持って」
「こっちがおたくのせいで路頭に迷う羽目になってるのに呑気にラーメン頼んでるのを知ってね、是非一緒にと思ってな」
「悪ィがその嬢ちゃんは客なんだ。こっちの人間じゃねぇ、離してやってや」
マリアは黙って様子を窺っていたが、今のところ男に殺意はないことを察し、軽やかに男の腕から逃れると同時にナイフを奪い取った。
「……へ?」
吉原達は一瞬の出来事で状況が掴めずに口を開けたが、床に押し付けられてあらぬ方向に曲げられた腕の痛みに悶絶する男の背中で膝を立てて笑顔を見せるマリアは、抵抗する男の首にナイフをあてがった。
「いきなり刃物なんて出されて驚いてしまいました。あまり騒ぐと私、また吃驚してこの右手に力を込めてしまいそうですよ?」
「…………抵抗しない、離してくれ」
「まだ武器を持っているようですので、少々お待ち下さいね――吉原さん、お手数ですがこの男性の胸のポケットにあるものを出していただけませんか」
「あ、あぁ……」
やっとマリアが何をしたのか理解した子分達が男を取り押さえる役を変わり、吉原が言われた通りポケットから小型の拳銃を奪うと、パタパタと埃を払うマリアが涼し気な表情で男を見た。
「吉原さんの仰る通りですよ。そんな物騒なもの持ち歩いてはいけません。私のような怖がりに過剰防衛されてしまいますよ」
「……おま、お前ナニモンだよ一体……」
「どうしますか吉原さん。警察に突き出しますか?」
「いや、警察はあまり好かん……」
「そうですね、私もあまり彼らが頼れるとは思いません」
虫も殺さぬ様なマリアに殺されかけた男は、大人しく子分達に連れて行かれた。
少ししてラーメン屋が現れ、何事もなかったようにラーメンを受け取るマリアに、吉原はえらく惚れ込んでしまったのだった。
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