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マリアは、数日前に“家族”として迎え入れたアキラをとても気に入っていた。
恋愛感情というものを抱いたことがないマリアにはそれがどういった意味合いの“好き”なのか断言出来なかったが、マリア自身はそれを家族愛と認識していた。
あまり自分のことを多く語らないアキラはいつも夜出掛けては傷だらけで帰ってきたが、心配し過ぎるのも重荷になるのではないかと考えたマリアは黙って手当をするだけ。同じ部屋で同じ空気を吸いながら、互いのことは殆ど知らない。それでも、ただそこに誰かが居てくれるということがマリアを安心させた。
嫁いでしまった真代の代わりというわけではないが、何も出来ないマリアに呆れつつも手を貸してくれるアキラに甘えている自覚もあった。ぶっきらぼうなアキラの態度も少しずつ丸くなってきて、相変わらずコンビニ弁当を買うマリアにある日アキラは食事を用意していた。
「……今日はお出掛けは?」
「雨じゃん。寒いから出たくなかった」
「でも、家に食材なんて無かったでしょう……? お買い物には行って下さったんですね」
「……別にマリアの為に作ったわけじゃないからな」
「そうでしたか」
「…………いや、マリアも食えよ? こんな量一人で食えねぇよ」
「ふふっ、嬉しいです」
マリアから見たアキラはとても不器用で、それでいて優しい男だった。
どういった過去があって哀しそうな瞳をしているのか、どんな理由で家が無かったのかも聞かなかったが、別に過去なんて知りたいとも思っていない。今こうしてマリアに日々の安らぎと驚きをくれる存在。それだけで充分だった。
マリア自身も自分の過去は触れて欲しくない。だからアキラとの距離感が心地良かった。
「アキラはすごいですね」
「何が?」
幾度目かのアキラの手料理を食べながら、マリアはうっとりとアキラを見つめた。
「だって、こんなに美味しいご飯を作れてお掃除も出来て、とっても美味しいお茶を淹れられるんですもの。きっといいお嫁さんになれます」
「……俺男なんだけどな。前も気にしてたけど嫁に行きたいの?」
「当たり前じゃないですか。女の子の夢でしょう」
「“女の子”?」
「…………意地の悪い人ですね」
頬を膨らますマリアを見て笑うアキラ。
鋭いナイフのフリをして優しく温かい彼が好きだった。
マリア自身は幼い異母妹を亡くしてしまって本当のところはわからないが、兄弟というのはこういった気の遣わないやり取りをするのだろうと想像していたマリアは、兄が出来たような、だけどアキラのほうが年下だから生意気盛りの可愛い弟だろうかと置き換えてみては幸せな気持ちになった。
やがてマリアの仕事も軌道に乗りコマロフの手伝いが難しくなった頃、アキラにアルバイトを打診し手伝ってもらえるようになった。
すぐに心構えや言葉遣いを正したアキラは、もう喧嘩で顔に傷を作ることもなくなったし乱暴な言葉も殆ど遣わなくなっていた。
「アキラの淹れるお茶は世界一ですね」
何度目かわからないマリアのその言葉に苦笑する。
「マリアだったらもっといいお茶も沢山飲んできたんじゃないの?」
「どういったものをいいお茶とするのかにもよるじゃないですか。私にとってはきっと、スーパーに売っているティーバッグだとしてもアキラが淹れてくれたものが一番好きなんです」
“家族”が増えて、家に自分以外の誰かが居るという安らぎを手に入れたマリアは、アキラが傍に居ることが当たり前になっていた。自分は多少危険もある仕事をしておきながら、もう傷を作ってこないアキラを見て彼が危険な目に遭うことはないと思い込んでいた。
だからコマロフからアキラが使いから戻らないと連絡を受けた時は血の気が引くのがわかった。
激しい後悔。
よく考えれば今まで喧嘩を繰り返してきた人間だ、いつ逆恨みや復讐で危険な目に遭うかもわからない。
雪がちらつく寒い日だったが、アキラを探して走り回りうっすら汗すら浮かべていたマリアは、コマロフの言っていた場所で微かに白い雪に赤が滲んでいるのを見つけると、その場所からチンピラが行きそうな場所を脳内で検索し、以前吉原の事務所の男が話していたビルを思い出した。
「アキラ!!」
駆け付けると、男が二人がかりでアキラを痛めつけていた。
見る限り武器も所持していたが、気を失っているアキラには素手で攻撃をしている。致命傷を与えることが目的ではなく、あくまで長時間に渡って苦しみを与えようとしているのは見て取れた。鉄パイプもナイフもあるのに傍らに置いているのだから。
「お? なんだよすげーイイオンナじゃん」
「何、ねーちゃんコイツのオンナ?」
「……随分と小者臭のする台詞を吐くのですね。弱い者程よく吠えますものね」
「――あぁ?」
「そんなキレーなカッコして、何も出来ないオンナが生意気言ってんなよ」
マリアはまずアキラから自分へ注意を引くために挑発すると彼らをじっと観察した。足元には武器が二つ。更に、一人はポケットに手のひらサイズの何かを持っているようだった。
「あら、そちらの物は使わなくてもいいのですか?」
「強がっちゃってまぁ。流石にシロートのオンナに凶器は止めておいてやるよ。紳士だろ?」
「えぇ、お優しいのですね」
抵抗を見せてポケットの中の物を使われるのを避けるためあえて一度大人しく腕を掴まれたマリアは、男の一人の足をヒールで踏みつけた。
「うっ!?」
その声にもう一人の男のマリアを掴む手の力が緩んだ刹那鳩尾に膝を入れ、男のポケットから気になっていた物を掠め取った。それがスタンガンだと知ると、蹲る男の首にあてがい躊躇いもなくスイッチを入れる。バチバチと激しい音と男の悲鳴の中、先に足を踏まれた男が床に置いていたナイフで威嚇しようと近付いたが、マリアは今使ったスタンガンを男の手首に投げつけナイフを落とした。
「隙がありすぎてお話になりませんね」
すかさず落ちたナイフを拾うマリアはスタンガンだけでは足りないと判断し、勢い良く男の太ももにその刃を突き立てた。ナイフを奪われた男は今度は鉄パイプを持ち出し応戦しようとしたが、振りかざしたパイプを掴んだマリアに引き寄せられバランスを崩したところに蹴りが入り、男がパイプを手放した瞬間マリアがそれを奪い腹を突き、倒れ込む男の首に振り下ろした上に、更に足を狙い数回打ち込む。
「――――アキラ! アキラ聞こえますか!?」
返り血でコートが汚れたことは不快だったが気にしている余裕などなかった。マリアは声が枯れる程アキラの名を叫び続けた。
「……え……? ま、マリ、ア……?」
状況が把握出来ていないアキラが不思議そうな声を出すと、アキラの怪我のことも考えられずに思わずきつく抱きしめた。
大切な家族が今まで何人も目の前で血を流して亡くなった。アキラまでもが同じようにマリアの前から居なくなってしまうかもしれないという不安に襲われたマリアは、子どものように泣きじゃくってアキラを困らせた。
その後救急車を呼び、搬送先の病院でコマロフに連絡したマリアは駆け付けたコマロフに初めて叱られた。
「いくらマリアが強くても何が起こるかわからないんだよ。マリアが彼を失うのが怖いように、私もマリアに何かあったらと思うととても怖いんだ。自分を大切に想っている家族が居ることを忘れるんじゃない」
「…………申し訳ございません、おじい様」
「――でも、マリアが無事でアキラ君も怪我はしたけれど命に別状はないようで……本当によかったよ」
マリアを抱きしめるコマロフが震えていることに気付いたマリアは、もう一度小さく「ごめんなさい」と呟いた。
アキラの長い入院生活の後、コマロフの店からアキラを引き抜いたマリアはそろそろ事務所を構えたほうが仕事もしやすいと考えていた。
順調に依頼も増え、それに伴い書類の山も増えていたことをアキラに指摘されたのがきっかけだった。
「じゃあ、この家をそのまま事務所にしましょうか?」
「ダメです」
「あら、どうして?」
「……マリアは女性ですよ!? 事務所を持つとなると、今までのように自分から出るだけではなくお客様が事務所を訪れることが増えていくでしょう? 男をマリアの家に入れるなんて反対です」
「だけどアキラ、貴方は一緒に暮らしていますよ?」
「…………」
アキラが言わんとしていることが理解出来ないマリアに、深い溜息を盛大に吐いたアキラが続ける。
「……事務所はマスターの店の近くにしましょう。そのほうがマスターの手伝いも行きやすいでしょう?」
「それもそうですね」
「あと、そろそろ私はこの家を出ます」
思わぬ宣言にマリアが動揺を見せる。
「えっ、どうしてですか……!? わ、私との生活は嫌でしたか……」
「いえ、嫌じゃないです……けれど、いつまでも居候というのも落ち着きません」
「そうですか……お部屋はもう決めているのですか?」
「これから探そうかと」
「でしたら、あまり離れた所に行かないで下さい。なんならこのマンションの他の部屋、お隣とか……」
「ここ分譲でしょう……そんなお金ありませんよ」
「私が――――」
「ダメです。私が自分で借りたいのです」
「……そうですか……ならそれ以外の私の我儘は聞いて欲しいです」
「なんです?」
「此処から歩いて5分以内の場所で探して下さい。それと、この部屋の合鍵は持っていて下さい。その代わりアキラのお部屋の鍵も下さい」
「――えっ」
頬を染めるアキラ。
マリアは潤んだ瞳でアキラを見上げる。
「おじい様とも合鍵は交換しているんです。おじい様が此処に来たことはありませんが。やはり家族は家の鍵も共有しているものなのだと思うので……」
「……家族……」
「?」
「いえ、そうですね……マリアはいつでも好きな時に来て下さい」
そしてアキラは数週間後、マリアの条件通りの部屋に越したのだった。
「アキラのお部屋も久し振りですね」
「えぇ……」
数ヶ月振りに飛び込みの依頼も進行中の依頼もない日が訪れ、定時で揃って事務所を出た二人はアキラの部屋で夕食を摂ることになった。上着を脱いだアキラが袖を捲りながら冷蔵庫の中身を確認する。
「あまり凝ったものは出来ませんよ?」
「アキラが作ってくれるのならなんだって構いません」
マリアが懐かしむように部屋を見回している間に、アキラが紅茶を淹れてテーブルに出した。嬉しそうにカップを持つマリアは、一口飲んでその花柄のカップに目を落とす。
「――私のカップ。とっておいてくれたのですね」
「当然じゃないですか。いつでも来て下さいと話していたでしょう」
アキラがこの部屋に引っ越した際にまだ頻繁に遊びに来ていたマリア専用のカップとしてソーサーと揃いで買った物だが、従業員も依頼も増えた最近ではマリアがこの部屋を訪れることもなかったためそのセットを使う機会もなかった。
当たり前のようにマリアのカップを出してくれるアキラに、少女のような笑顔を見せるマリア。
「……食事の用意をしますね」
頬を染めて目を逸らしたアキラだったが、料理をしながらもカウンター越しにマリアの様子を窺っていた。皿に盛り付ける頃マリアは手伝いを申し出、テーブルに運びながら冗談を言う。
「新婚さんってこんな感じでしょうか?」
「……多分男女は逆が多いと思いますけれどね」
「私だって作ろうと思えば……」
「わかっています。だけどマリアはそのままでいいじゃないですか。私が料理出来ますから」
「須田様はきっと家庭的な女性でしたでしょうね。キッチンが真代さんの家のようでしたもの。あまり直接的に異性からアプローチされないんですから、惜しいことをしたと思っていませんか?」
「まだ言っているのですか? 彼女とは本当にケーキ屋で居合わせていただけです」
「それはわかっていますけれど……」
行儀の良いマリアが食事を始めても会話を続けるのは珍しい。パスタを口に運ぼうとしたアキラが、一度その手を置いてマリアを見やった。
「ヤキモチですか?」
それは彼のほんの悪戯心だった。
いつもその気もないマリアの無邪気な言動に心を掻き乱されるアキラが、深い意味も持たずに言葉の上だけでもやり返してやりたいと思っただけだったが、マリアは躊躇いもせず答えた。
「そうですね」
「ですよね……――――え?」
「だから、ヤキモチです。異性の兄弟に恋人が出来そうになった時は、皆さんこんなに寂しい思いをしているのでしょうか」
それがまた“家族”故の感情だと告げるマリアに、痺れを切らしたアキラが我慢出来ずに言い返す。
「それは違うと思いますよ。マリア、そんなに気になるのでしたら私と家族になればいいじゃないですか」
「嫌ですね、アキラってば。もう随分昔から私達は――――」
「そんな曖昧な関係ではなく、“本物の家族”になりませんか?」
「……まるでプロポーズの言葉のようですね」
「そのつもりですから」
アキラの真剣な眼差しに、どう答えるべきか図りかねていたマリアは、不意に見せられたアキラの本気に心臓が騒がしくなったことを悟られまいとテレビのリモコンに手を伸ばした。
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