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 石橋景子(いしばしけいこ)がその店を訪れたのは、急に降り出した雨から書類を守るためだった。  取引先から契約書を受け取り自社に戻る途中、午前中までの快晴が嘘のように真っ黒な分厚い雲が一気に空を覆い、一瞬にして辺りを濡らした。まるでドラマのような激しい雨に、白いパンプスが汚れるのを避けるより右手に抱えた封筒を守ることを優先した景子は、どんどん広がる水たまりの上を走り、偶然目についた喫茶店に飛び込んだ。  重たい扉を押し開けると、アンティークの調度品で揃えられた上品な空間が景子を迎え入れた。  が、店員が出迎えてくれるわけでもなく、メニュー表もない。喫茶店と呼ぶには少々排他的な印象を与える。 「……すみませーん!」  小さな窓から外を覗けば、変わらず地面に打ち付けるような雨。  ここで雨宿りをするしかない景子は多少声を張って店員を呼び、店内を見渡した。カウンターには席が3つ、テーブル席は2つしかないが、決して店内が狭いわけではない。大きな本棚には洋書が並んでいるし、食器棚には洒落たレイアウトのプレートやカップ。立派な蓄音機が置いてあるのにBGMは無く、ただ雨音だけが響いていた。 「お待たせ致しました」  足音も立てず出てきた女性を目にし、景子は彼女を日本人形のような美人だと思ったが、すぐに多少の語弊があるな、と改めた。  漆黒の長いストレートヘアに陶器のような白く艶やかな肌は確かに日本人形のそれだが、顔はフランス人形のように目鼻立ちがくっきりとした華やかなものだ。 「どうぞお掛け下さい。今タオルをご用意致しますね」  苛々しない程度にゆったりとした口調の彼女は、景子が雨に打たれたことを知り再び奥へ戻っていった。言われた通りにカウンター席に腰掛けた景子は、先程の美人の姿からここが喫茶店ではないのかもしれないと考えた。  彼女は高級そうな黒いスーツに身を包んでいた。エプロンもしていなければ、シャツの袖を捲っているわけでもない。そもそも、飲食店の店員ならあんなに長い髪を靡かせるような髪型はしないのではないか、と。 「どうぞ」 「っ……!? あ、ありがとう……ございます」  やはり足音のない彼女に驚いた景子だったが、差し出されたタオルを受け取り髪や鞄を拭いた。 「すみません、急に雨が降り出したもので……カフェか何かだと思って入ったんですが、もしかして違いましたか?」  景子の問いに、彼女は微笑んで首を横に振った。 「いえ……――――お客様のような方を迎え入れる場です。どうぞごゆっくりお寛ぎ下さいませ。メニューはございませんが、何か飲まれますか? アルコールはご用意出来ませんが、珈琲や紅茶は色々揃えておりますよ」 「あ、じゃあ……何か温まるものを……」  喋りも動作も落ち着いている彼女に対して、景子は酷く緊張していた。  メニューが無いため値段もわからないことも不安だったし、ここがどういう店なのか、この美人は何者なのか、一切わからなかった。 「お客様はお仕事中ですよね」 「え、あ、はい……」 「――……ふふっ、ご心配なさらずに。お代はいただきませんので」 「えっ!?」  景子が驚いて声を裏返したことが可笑しかったのか美人は小鳥のように小さく笑った。 「ここは喫茶店ではないんです。だからこちらはただのおもてなしです」  そう言いながらアールグレイを淹れた小花柄のティーカップを景子の前に出した彼女は、「そういえば美味しいクッキーがあるんですよ」と後ろの棚に手を伸ばした。 「あの、じゃあ、ここはどういった……?」 「そうですね……強いていうならば、私の“趣味”の空間でしょうか」 「はぁ……」  答えになっているようで景子の求めるような回答ではなかったが、彼女の黒曜石のような深い瞳に見つめられるとそれ以上疑問をぶつけられなかった。 「お客様は、どういったお仕事をされていらっしゃるんですか?」 「……空いているテナントを活用しないかと企業を回る仕事です。さっき一件契約が取れて、その帰りだったんです」 「おめでとうございます。お客様はさぞお仕事が出来るんでしょうね」 「いえ、大したことないですよ」 「そんなことございません。だって、そんなに素敵な腕時計をしていらっしゃるもの。ご自分へのご褒美かなと思ったのですが――あ、好い人からの贈り物でしたか?」 「あ、コレはその――はい、先月成績が部署内で初めてトップだったので、自分で買っちゃいました。恋人とか居ないんで……」  つい口走ってしまい、しまったと思った。  景子は、仕事が出来るのは自分が努力している成果だと考えている。容姿は人並だが、髪型とメイクで“雰囲気美人”にまで引き上げているのも努力した結果である。同僚や後輩からの人望も厚く上司からの信頼も得ている景子を社内では誰もが“勝ち組”だと称したが、景子自身はその評価にストレスを感じているのだ。  当然のように素敵な恋人が居ると思われていて、景子もそれを否定することはなかった。  しかし仕事や自分磨きに夢中になり恋人を作る余裕なんてなく、来月28歳になるというのに10年以上独りを貫いてきた。 「……でも、職場の人には恋人に贈ってもらったものだと言ってしまったんです」 「あら、どうしてそんなことを?」 「仕事でも何でも、期待には必ず応えなければいけないと思ってしまうんですよね……まぁ、そんなの見栄を張ってしまった言い訳でしかないんですが」 「――苦しいんですね?」  彼女の言葉に、景子は戸惑いつつも頷いていた。 「本当は、高校の頃少しだけ同級生と付き合ったことがある程度で、それ以来恋愛なんて遠い世界の話だったのに……つい周りの噂通りにって、恋人がいる設定にしてしまったんです」 「本当に恋人を作ってしまえば良いのでは?」 「んー、なかなか……社内や取引先では恋人が居ると思われているし、そうなると出会いもなくて」 「お客様は、ずっとそのままでもよろしいのですか?」 「何かきっかけがあればとは思うんですが……」 「大丈夫ですよ。お客様が望むのならば、近い内にきっと状況は大きく変わります」 「あはは、なんだか占い師みたいですね、貴女は……えっと」 「大変失礼致しました。自己紹介がまだでしたね。私はマリアと申します」  マリアと名乗った彼女はゴシック調のデザインの名刺を差し出した。それを受け取り思わず景子も自身の名刺を出す。仕事モードが抜け切らないのだ。 「……イミテーション・ハーツ?」  社名と思われる個所に印字された単語を読み上げたものの、景子が聞いたこともない名前で何をしているのかもわからなかった。その名刺だけ見ればキャバ嬢だと思う人もいるであろうデザインで、黒地に薄紫で名前が印字され、社名の右上に一ヶ所だけハートマークが赤く浮かんでいた。 「失礼ですが、どのような……?」 「申し訳ございませんが、ご依頼をいただくまでは詳しいことはお話出来ないのです。ただお客様のご要望をお聞きし、嘘を偽物で本物にするお手伝いをさせていただいております」 「嘘を偽物で本物……?」 「そうですね、例えば――お客様の“恋人が居る”という嘘は、同僚の方の前に“恋人役”が現れればたちまち彼らの中に“本当に恋人が居る”という事実が完成しますよね?」  つまりは“サクラ”を用意する会社なのかと景子が問うと、マリアは妖しく笑った。 「雑に言えばそうなりますが、当社は“イミテーション”をご用意いたします。ジュエリーに置き換えてみていただければわかりやすいでしょう。宝石のイミテーションは質が良ければ本物の宝石と見紛う程美しいです。弊社には各方面のプロフェッショナルが揃っておりますので、簡単には“用意された人材”だとは見破られません」  勿論費用はそれなりにいただきますが、とマリアは続けた。  確かに上手く使えば自分の立場がもっと安定するのではないかと景子は考えた。たとえニセモノでも、何度か会わせれば契約が終わった後頃合いを見て別れたのだと言えばいい。  だけど、と思いとどまる。今の景子は、自分で不安に思っているだけで実際に足元がグラついているわけではない。 「すごく興味はあるんですが、まだ必要性を感じません」 「いいんです、このような方法もあるのだと知っていただけただけで充分です」 「……もし、依頼したくなったら、ココに来ればいいんですか?」  名刺には所在地どころか電話番号すら書かれていない。 「はい。24時間、年中無休でお引き受け致します。もっとも、私が不在の時は他の者が対応させていただきますが。お客様のことはスタッフに伝えておきます」  マリアは壊れ物を扱うように景子の名刺に触れ、空になったティーカップを置く彼女に微笑みかけた。 「ご依頼いただくことになれば、ご契約内容によっていくつかお守りいただくお約束がありますが……1つだけ、ご依頼の有無に関わらず絶対に守っていただきたいことがございます」 「……はい」  ゴクリと喉を鳴らす景子だったが、マリアは悪戯っぽく口元に人差し指を当てて続けた。 「当社のことは決して誰にも話さないで下さい。どんなに親しいご友人、ご家族にもです。見聞きしたことは勿論、店の名前も他言無用です」 「わ、わかりました……」 「ふふ、ありがとうございます。石橋様、お時間は大丈夫ですか? 雨は先程よりは落ち着きましたが、きっとこの様子だとまだ降り続くでしょう。こちらの傘をお使い下さい」  赤い傘を景子に渡したマリアは、素直に受け取り出入り口に向かおうとする景子を呼び止めた。 「職場に戻られたら、まずはその靴を磨いてあげて下さい。持ち主さんがお仕事に熱心なのは喜んでいると思いますが、これではスーツや時計と釣り合いが取れません」  マリアが哀しそうに涙を拭う振りをしてクスリと目を細めるのを見て、見た目よりも茶目っ気のある女性なんだと捉えた。  イミテーション・ハーツを出た景子は、しっかりと封筒を抱え歩き出した。  名刺にあるハートマークと同じ深紅の傘は灰色の街に映える。傘の花という言葉を肯定的に捉えられる程雨を好きになれない景子だったが、この傘は薔薇のように美しく、自分の格も少し上がったような錯覚を覚えて心地良く感じていた。  そんな偶然と何気ない会話が、石橋景子が“イミテーション・ハーツ”を知るきっかけであり、彼女の生活の大きな変化の始まりだった。
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