③ 『笑顔』

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③ 『笑顔』

 周りに人気がないことを確認し、バルネアは裏口からティルと二人で店の中に入る。  悪いことをしている背徳感もあったが、それ以上に好奇心を優先する。 「ちょっと待っていて。今、用意をするから」 「あっ、その、うっ、うん……」  コックコートに着替える時間は惜しいが、流石に外着のまま調理をする訳にはいかない。  バルネアはティルに客席に座って待っているように言うと、更衣室に行って手早く服を着替えてエプロンを身に付ける。 「調理時間は二十分てところね。ふっふっふっ、気合が入ってきたぁ!」  バルネアはパンパンと軽く自分の頬を叩き、グッと拳を握ったまま厨房に戻った。 「あっ、あの、今日はお店は休みなんじゃあ……」  自分しか居ない広い店内で、落ち着かない様子でティルが尋ねてきた。 「気にしない、気にしない。それに、今日は私がお店を自由に使っていいって許可をもらっているから、大丈夫よ」  もっとも部外者を連れ込むのは不味いだろうが、これも常連客を離さないためだと自分に言い訳をして、バルネアは調理に取り掛かる。 「ええと、昨日のランチメニューは、ルーシアのお得意の魚料理だったから……。よ~し、それならちょっと変わった鶏肉料理にしましょうか。あっ、他に何かリクエストはあるかしら?」  満面の笑顔でバルネアが尋ねると、ティルは「いや、その、おまかせで……」と答えた。 「了解。すぐにできるから待っていて」  先ほど料理長に味見をしてもらった料理の残った材料で、バルネアは手際よく料理を仕上げていく。 「ここ最近はコース料理ばかり作っていたから、こういう楽しい料理をつくるのは久しぶりだわ」  バルネアは楽しそうに、けれど無駄のない動きで料理を続ける。  ぶつ切りにして塩コショウを馴染ませておいた鶏肉から水気を切って、小麦粉を軽くまぶす。  そして熱していたフライパンにそれを投入する。 「さてさて、いい焼き色がついたらお酒を入れて蒸し焼きにしてっと」  バルネアは水を得た魚のように活き活きと動く。  先ほどまでの鬱屈とした感情などどこかに行ってしまったかのように。 「あっ、ちょっと変わったソースにするけど、美味しいことは保証するから安心してね」 「うっ、うん……」  バルネアの動きを何とか目で追いながら、少しだけ心配そうにティルは頷く。  バルネアは自覚していないが、あまりにも手際が良すぎて素人目には何をしているのかわからないのだ。 「そして、後はこのソースにとろみが付いてきたら……」  蜂蜜とマスタード、それに醤油と水を加えたものを蒸し焼きにした鶏肉に絡めていく。 「たしか、パンよりライスのほうが好きだったはずよね?」 「あっ、うっ、うん……」  ティルの返事を聞く前に皿にライスを盛りつけ、バルネアはティルの席の前にそれを置いたかと思うと、次の瞬間には、香ばしさとほのかに甘い香りがする鶏肉料理を彼の前に差し出した。 「はい、お待たせ。バルネア特製、『チキンのハニーマスタードソース和え』よ。熱いうちに食べてしまってね」  そう言って満面の笑みを浮かべるバルネアに気負されながら、ティルは「すっ、すごいね」とあっけにとられて感想を述べる。 「もう。料理の評価は食べてからにして。はい、どうぞ」  バルネアはフォークとナイフの入った専用の小さな籠をティルの前に給仕する。 「あっ、ありがとう……」  呆然としながらも、ティルはその籠からナイフとフォークを取り出し、バルネアの期待の眼差しを受けながら、チキンを口に運び咀嚼する。 「ふふっ。お味はいかが?」  悪戯っぽくバルネアが尋ねると、ティルは少しの間呆然としていたが、 「……うん」  そう呟いて満面の笑顔をバルネアに向けた。  それは、心からの笑顔。  百の言葉よりも雄弁に、その表情がバルネアの料理を絶賛していた。 「……すっ、すごい笑顔をするのね、貴方……」  思わずその笑顔に見とれていたバルネアは、気恥ずかしそうに頬を染める。 「そうかな? だけど、こんなに美味しい料理を食べたのは、本当に初めてだったから……」  ティルはそう言い、もう一度満面の笑みをバルネアに向けた。 「そっ、そう? ライスにも合うと思うから、試してみて」  朱に染まった頬が熱くなるのを感じ、バルネアは戸惑いながら視線をティルから逸らす。  何故かは分からないが、この少年に笑顔を向けられるのがひどく恥ずかしい。 「……うん。本当だ。ライスが一緒だと、一層美味しく食べられる気がする。……そっ、その、言葉では上手く言えないんだけど……。すごく美味しいよ」  そう言ってまた微笑むティルに、つい視線を向けてしまい、バルネアは再び頬が熱くなってくるのを感じる。 「このソースも本当に美味しい。鶏肉にはちみつのソースがこんなに合うなんて……。いつもこのお店の料理は美味しいと思っていたけど、これは特別に美味しいよ」 「もっ、もう。褒めすぎよ。『空腹は最高のソースである』ってことわざを知っている? ソースは料理の味を引き立てるものだけど、空腹こそがソースにも劣らない優れた調味料であるって意味なの。だから、貴方がそんなに美味しそうに食べているのは……」 「えっ、ええと、たしかにお腹は空いているけど、それを差し引いても美味しいよ」  そう言って微笑むティルに、バルネアは返す言葉が見つからなかった。  思えば誰か一人のために料理を作ったのも、そしてその感想を聞いたのも久しぶりだ。 「……うん。ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいわ。あっ、食後の紅茶もサービスしてあげるから、ゆっくり楽しんでね」 「あっ、うん……。でも、休憩時間が決まっているから……」  ティルはそう残念そうに呟いて、食事を再開する。  少しだけ早めに、でも美味しそうに味わって自分の料理を食べてくれる姿に、バルネアは笑みを浮かべてそれを見守っていた。 「そう言えば、貴方のお仕事ってなんなの?」 「……船乗りだよ。その、まだ見習いだけどね……」  少し恥ずかしそうにティルは答えた。 「……船乗りなの? あっ、だからうちのお店に頻繁に来ていたと思ったら、暫くの間、全く来ない時期もあるのね」  小柄で線が細いティルの姿と屈強な海の男のイメージは結びつかないが、船乗りだというのであれば来店頻度がばらつくのも納得だとバルネアは思った。 「うん。ここの港を起点にすることが多いから、月の大部分はこの街にいるんだけどね。もう暫くはそんな生活が続くと思う」 「そうなんだ。そういえば、どれくらい前から、この街に来ているの?」 「……四年前かな? ちょうど船に乗り出したのが十二歳の頃だから……」 「ということは、私と同い年? 年は近そうだと思っていたけど……」  そんな取り留めのない会話をしていると、時間はあっという間に過ぎていった。  ティルは綺麗にバルネアの料理を平らげ、食後の紅茶を飲み終えると、静かに立ち上がり、 「えっと、ご馳走様。その、お代はいくら払えばいいのかな?」  そうバルネアに尋ねて来る。 「お代? いいわよ、そんなの。私も気晴らしで料理を作って、誰かに食べてもらいたかっただけなんだから」  本当は命を救ってくれたお礼もあるのだが、バルネアはその事は口にしなかった。 「そっ、そういう訳にはいかないよ。こんな美味しい料理にお金を払わないなんて……」 「いいの、いいの。今回は特別サービスよ。いつもうちのお店に食べに来てくれているお礼よ」  そう言いながら、バルネアは少しだけ憂いを含んだ笑みを浮かべる。  コンテストの結果がどうであれ、自分は近いうちにこの店を辞めることになるのだ。  店で働く後輩たちのためにはなるかもしれないが、自分がこの笑顔を見るのはこれで最後。  そう思うと何故か寂しかった。 「でも、やっぱり……」 「……それなら、こういうのはどう? ミリシ通りの広場の近くに『白の子鹿亭』ってお店があるんだけど、そこに明日、昼食を食べに来て。その、私が料理を作るから……」  バルネアは自分でも何を言っているのか理解できなかった。 「えっ……。うっ、うん。それぐらいはなんてことないけど……。でも、その、このお店は……」 「明日から暫くの間、私は休みをもらっているの。その間に料理の研究をしないといけないんだけど、料理を食べてくれる人が居たほうが、私も気合が入るから……。その、駄目かしら?」  我ながら突飛な提案だと思ったが、考えるよりも先に口が動いてしまった。 「いっ、いや、駄目じゃないよ! その、僕で良ければ……」  ティルはそう言い、頬を紅潮させて俯く。 「ふふっ、ありがとう。しっかりお腹を減らしてきてね」 「あっ、うん……」  満面の笑みを返すバルネアに、ティルは顔をいっそう真っ赤にして頷いた。
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