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慌ててスーツの内ポケットに手をいれて名刺入れを取り出す。さらに一枚引き抜いて、まるで名刺交換でもする様に志織に差し出した。
「ええと、こういう者です!」
緊張しているのか微かに名刺が震えている。本当に新入社員の名刺交換の様だと、ここでようやく志織にも笑う余裕ができた。
「これはどうもご丁寧に」
志織も同じ様に青年へと名刺を渡す。駅のホームでやることじゃないわよね、と込み上がる笑いを噛み殺しながら、志織は受け取った名刺に目を落とした。
会社の名前も肩書も住所すらない、名前だけの名刺。ん? と不思議に思い裏を捲ると、そこには住所と電話番号が書いてある。しかしこの住所はもしかして、と青年を見やると、なぜか満足そうに頷いた。
「まだ会社の名刺ってのがなくて、それはおれ個人のです」
「個人のって……ことは、君の住所と電話番号!?」
「そう」
「そう、じゃなくて! だめでしょこんな! 個人情報簡単に渡しちゃ」
「いいの、おれがおねえさんに知って欲しいんだから。おれもおねえさんの知ってるし」
「なんでわたしに知ってほし……え?」
一瞬流しかけたがなにやらとんでもない事を言われた、ような気がする。軽く眉間に皺を寄せる志織に対し、しかし青年は人好きのする笑顔を崩さない。
「おねえさんの言葉に感動して、どうしてもおねえさんにもう一度会いたくて、でも今のままのおれじゃダメだと思って頑張って会社立ち上げて、そこからさらにもう一年ってなんとか今日までおねえさんに会うのを我慢してました!」
「あ、そう、なの?」
今し方の疑問を追求するより先に、青年から怒濤の勢いで詰め寄られる。
「納税の義務も背負うようになって二年目だよおねえさん!」
「それはちょっと言われるといたたまれないんだけど!」
青年のためを思ってあんな事を言ったわけではない。単純に疲れ切っていて、そのせいでつい口からポロリと出てしまっただけだ。
しかし、そんな意図せぬ言葉で一人の青年が立ち直って、今こうして立派な姿になって目の前に立っている。それはとても素晴らしい事なのではないだろうか。
なんだかとても嬉しくなり、志織は上の方にある青年の顔を見上げた。彼も志織を真っ直ぐに見ており、そしてふわりと微笑んだ。
そして直後にもたらされる、とんでもない衝撃。
「だからおねえさん、おれと結婚してください!」
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