1-3.奇妙すぎる関係

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1-3.奇妙すぎる関係

 『プロタゴニスタ』は二十一時まで営業し、基本、雪生が最後の店じまいを行う。雪生(ゆきな)が休みの場合、最後に残った従業員か事務員の真殿(まどの)、そして美土里(みどり)の秘書たる浅川(あさかわ)がそれらを担当するのだが、今日は少し違った。美土里が手伝いを買って出てくれたのである。 「社長、私の仕事ですから大丈夫です」  クリーニングに出す作業着などを分別しながら雪生が固い声で言うと、それでも美土里はなんてこともないように、部屋の明かりを消していきながら笑う。 「二人でやった方が早いだろう? これから、マッサージもするんだしね」 「私、店でやるとばかり思っていたんですけど」 「備品の節約だよ。僕がいつも使うマッサージ用品、ホテルに置いてきてるから」 「……ホテル、ですか」  雪生は、自分の声が強張るのを感じた。要はそこで施術を受けるのだろう。いい歳をした男女がホテルで二人きり。交際経験がない身とはいえ、貞操の危機を感じるのはおかしいことだろうか。 「さて、こんなものだね。二階は施錠してあるし、後は入り口だけか。(みやこ)くん、後はお願いするよ。僕は車、表側に出してくるから」 「わかりました……」  颯爽と表口から外に出て行く美土里の背中を見て、小さく嘆息した。  今更やめますとは言えない。美土里の言う通り、たかがマッサージ。そう考えていても、さすがに場所が場所だ。下手なところで頑固な自分が恨めしかった。  美土里と二人きりでどこかに行くのは、これが二度目である。一度目は美土里の実家に行った。もちろん偽りの婚約者として。それ以外、二人で出かけたことはない。当然だ、別に恋人ではないのだから。  二人で行くところが、実家に次いでホテルとは、これまた奇妙だなと思う。美土里の両親を騙していることにも気が滅入る。何度目かのため息をつきながら、橙色の鞄を肩にかけ、受付の電灯を消した。それから外に出て鍵をかけておく。  路上には白い車が止まっていた。美土里の車だ。高そうな外車で、街灯によく磨かれたボンネットが光っている。 「お待たせ。前に乗ってくれて構わないよ」  助手席のウィンドーを開かれ、そう言われたものだから、大人しく従うことにした。緊張しながらも前に乗りこみ、シートベルトを締める。ウィンドーが閉じられると同時に、車は出発した。車内には軽やかなジャズが流れている。 「都くん、お腹は空いていないかい?」 「私は大丈夫です。夕飯、ちゃんと取りましたし」 「僕も平気。都くんの作っただし巻き卵、美味しかったよ」 「……勝手に人のお弁当、つまみ食いしないで下さい」 「だって美味しそうだったから。料理上手だよね、都くんって」 「真殿さんの呆れた顔、見ました?」 「羨ましかったんだよ、きっと」  そう笑う美土里に悪びれた様子は微塵もなく、雪生はもう、と小さく呟くことで抵抗に変える。店に来るたび、手製のおかずを盗み取られている身としては諦める他ない。 「都くんを車に乗せるの、二度目だね」 「はい」 「緊張してる? 少し声が固いけど」 「そんなことはありません。社長の気のせいです」  内心を読み取られ、一瞬ぎくりとした。悟られないように横の窓を見つめてごまかす。 (ホテルになんて行くのなら、やっぱり断ればよかった……)  後悔ばかりが思考を占め、通り過ぎていく車のテールランプや、店からの道のりも頭に入ってこない。雪生も美土里もしばらく無言で、ただ車内には音楽だけが響いた。  こうしていると、美土里とはじめて出会ったときのことを思い出す。鮮烈なほどの印象を抱いた。ハーフだというのに威圧感はなく、差し伸べられた救いの手がありがたくて、心がときめいた記憶もある。  群青色のベストに白いシャツ、黒いスラックス姿の美土里は、ちょうど初対面のときと同じ服装だ。車に乗せられたこともあいまって、馬鹿馬鹿しい乙女心を思い出し、目をつむる。  ――君は今日から、僕の婚約者だから。  微笑んで言われた言葉に、最初は頭がついていかなかった。戸惑う自分を無視し、あれよあれよという間に婚約者を演じるはめになった始末だ。とはいえ一年、監視されるように店で働かされてはいるが、給料もちゃんと出ている。家も、弟の分まで用意してくれた。  美土里とデートすらしたことのない身で、婚約者を名乗る資格はあるのだろうか。いや、どうせ偽者なのだから、交際なんてどうでもいいのかもしれない。そう思うと、胸が少し靄ががったようになる。 「……そういえば、『グレイス』との競争、どうですか?」  無言にも耐えかね、顔を戻して難しい話題を振った。美土里から笑みが消える。 「大丈夫、とは言い難いかな。さすが貴江(たかえ)だよ。急速に追いついてきている」 「野々宮(ののみや)社長はやり手だと噂で聞いたこともあります。外資系にいたんですよね、野々宮社長って」 「よく知ってるね。まあ、競争とはいっても広宮家が勝手に決めてることだから。グループ傘下に収めるかどうか、跡取りがどうのっていうのは。こっちとしてはいい迷惑さ。貴江もむきになるし、僕は浅川に尻を叩かれる始末だし」 「そうですか……勝てるといいですね」 「うん。どうあれ勝負には勝つ」  一瞬見せた真面目な顔に、なぜか心を持っていかれそうな気がして静かにうつむいた。  『プロタゴニスタ』のライバルマッサージ店である『グレイス』。そこの経営を一手に担っているのは広宮家の分家、野々宮家の長男である貴江だということを、雪生は美土里から聞かされていた。  一年間の期限を定め、どちらが広宮家の跡取り――すなわち広宮というお香の店の跡を継ぐか見定める。それが、美土里に課せられた試練だということも。  本人は今言ったように、迷惑以外のなにものではないらしいが、分家長男が本店の跡を継ぐ絶好のチャンスなのだろう。『グレイス』の社長、野々宮貴江は美土里をライバル視してやまない。 (私には関係のない話だけど。原さんたちと離れるのは、嫌かも)  思う雪生を乗せた車は、ビジネス街と駅の中間地点にあるシティホテルに辿り着いた。最近改築されたホテルは絢爛さと落ち着きを両方兼ね揃えており、飾られたイルミネーションの明かりに目をまたたかせてしまう。  車を預けた美土里に先導され、中へ入る。ロビーに飾られている調度品や花なども、見ただけで高価とわかる代物で、場違いではないかという気持ちが余計、背筋に緊張を走らせた。 「体、強張ってるよ。大丈夫かい?」 「あ……い、いえ。平気です。こういう場所に慣れてなくて」  歩く速度を落とし、自分の横についた美土里がそっと手を握ってきたものだから一瞬、震えた。手は思った以上に大きくて、温かい。指も長く、滑らかだ。 「あの、社長」 「都くんの手、温かいね。マッサージに向いてる手だよ」 「はあ……」  無下に振り払うこともできず、狼狽を隠しながら曖昧にうなずく。原にも言われたことがあるから、きっと褒められたのだろうと解釈して。  手を優しく握られたまま、ホテルの最上階、美土里が宿泊している部屋に着くまでの間、心臓がおかしくなりそうだった。不安と緊張で頭がよく回らない。  部屋のドアを開けられて、生唾を飲みこみながら中に入る。室内は大分広く、入ってすぐの場所からも一面ガラス張りの先が見えた。市街の明かりがまるで、月並みだが宝石みたいに輝いている。夜闇の真上には三日月もあって、景観も抜群に良い。 「綺麗……」 「出張帰りのときは、いつもここに泊まってるんだ。眺めもいいし、料理もいい。都くん、何か飲む?」  ネクタイを緩めた美土里が、丸いテーブルに置かれたワインらしきボトルを指した。雪生は首を小さく振り、申し訳なく思いながら奥へと続いた。 「お酒はちょっと……お水、ありますか。それをいただければ」  自分は酒に弱いし、これからマッサージを学ぶという大事な目的がある。雪生の言葉を聞いた美土里は、設備されていたボックスから水をとりだしてグラスに注いでくれた。 「こっちは一杯、ワイン飲ませてもらうよ」 「あの、お酒飲んで、施術できるんですか?」 「僕はほら、ハーフだから。そのおかげで酒も強くてね。一杯くらいじゃあ酔わない」  窓ガラスの側に立ちつくす自分へ、半分ほど水が入ったグラスを差し出す美土里はどこか、切なげに見えた。  美土里は己のことを話すとき、いつも辛そうにする。明るい笑みを浮かべ、揶揄しながら会話を交わしたりしている中に、どこか悲しげな光が目にあることを雪生は知っている。そのくらい気づいてしまう程度に彼を見ていたことに、思わず唖然とした。 「どうかしたかい?」 「い、いえ。お水、もらいます」 「飲んだら早速、施術するから。紙の下着は……っと」  一度にワインを飲み干した美土里が、グラスを置いてベッドへと向かう。ベッドの下から出てきたのはアタッシュケースだ。雪生の方からは少ししか見えないが、オイルやアロマの瓶なども入れられている。 「はい、これ。バスルームで着替えてきて。ガウンもあるから使ってくれていいよ」 「わかりました」  紙製の下着を受け取って、いよいよだと覚悟を決めた。水を飲み終え、言われたまま、指し示されたバスルームの方へと向かう。手が震えていたが、これは単なる研修だ。今更、何も戸惑うことなんてない。自分に言い聞かせ、手早く支度を調えることにした。  室内にある鏡に映った自分の顔が、いつも以上に強張っていたけれど。
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