1-4.好き、嫌い、好き?

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1-4.好き、嫌い、好き?

 裸体に紙製の下着をつけ、ガウンを羽織った雪生(ゆきな)がバスルームから出ると、いつの間にかほとんどの電気は消えていた。サイドテーブルの明かりだけがまぶしい。ベストを脱ぎ、白いシャツとスラックスだけの姿になった美土里(みどり)と目が合う。 「準備ができたようだね。ガウンを脱いで、ベッドにうつ伏せになってくれるかな」 「は、はい」  美土里の顔は真面目そのもので、薄暗い室内ということもあってか別人に見える。ここまできて躊躇している暇も余裕も、雪生にはなかった。  ベッドの正面側に周り、後ろを向いてガウンを床に落としたとき、美土里が手にしたバスタオルを肩にかけてくれた。胸を見られたくなくて、礼も言わずうつ伏せに寝そべる。身を預けたベッドの心地は丁度いい。 「普通は足の裏からやるけど、それはまた今度。ふくらはぎからやっていくよ」 「お、お願いします」  オイルを手に垂らし、馴染ませ暖める美土里の姿すら、恥ずかしくて見られなかった。  触られた、と思った瞬間、手のひらで揉まれるように一気に膝裏近くまで擦られる。痛みはほとんど感じない。かといって緩くもない。抜群のさじ加減につい、吐息が漏れた。 「痛くない?」 「いえ、全く……大丈夫です。いい香りですね。ジャスミンですか?」 「うん。他にも色々配合してあるよ。オイルはホホバ」  片足を丁寧に、滑らせるように揉まれて、疲れが解きほぐされていくようだ。ジャスミンの香りも程よく、自然と体から力が抜けていく。ベッドの上、足下に美土里がいるというのに、驚くほどリラックスしていた。そうさせる技術を美土里は持っていた。 (凄い……原さんたちも、こんな感じでやってるのかな)  鎖骨付近に敷かれた枕が、弛緩した体の重みで少し、潰れる。 「マッサージのコツはね、相手の様子をよく見ること。痛がってないか、緩すぎないか、言ってくれるお客さんはいるけど、そうじゃないタイプもいるから。観察が大事だよ」 「はい……」  やはり接客業は大変そうだ。事務ばかりやってきた自分にできるか、少し不安になる。 「また緊張してる。リラックスして」 「ひゃっ」  つ、と指だけでふくらはぎの横をなぞられて、奇妙な声が出た。くすぐったさの中に、何か奇妙な感覚がある。むずむずした、なんとも形容しがたい感触が。 (夢の中の感じと……似てる、かも……)  そう、どこか似ている。悪夢の中で感じる、心地よい不思議な感覚と。全身を弄られ、凝りをほぐされている中にも、美土里の手の熱さが奇妙な感触をもたらしてやまない。 (ま、真面目にコツ、覚えなきゃ)  いやらしい夢を思い出し、頬が赤くなる。この明かり程度なら美土里には見えていないだろう。それでも堅苦しい顔を作り直し、マッサージのやり方を頭に叩きこむ。その緊張が伝わったのだろうか、太股を弄る美土里が小さな笑い声を上げた。 「今は頭で考えなくていいよ。とりあえずの流れを覚えればいいから」 「わ、わかりました……普段は足裏、からやるんですよね?」 「足の裏は、お客さんにするかどうか尋ねた方がいい。くすぐったがりの人もいるし、何よりツボが集中している場所だからね。下手に施術すると揉み返しが来る」 「そうなんですね。ツボの勉強もしなくちゃ……」 「(みやこ)くん。どうしてそんなにマッサージ、勉強したいんだい?」 「え、っと。は、原さん方の中で欠員が出たら、代わりに出られるかなと思いまして」  小さな嘘をついた。まさか美土里と離れたときのため、とは口が裂けても言えない。 「都くんは嘘が下手だな」 「え?」 「保険だろう? いつか僕が君を手放したときに役立つから、そう考えてるんじゃあないのかい」  どうして、と内心を見抜かれ、うろたえながら体を横たえた。タオルで手を拭く美土里が自分を見下ろしている。怖いくらいの無表情があった。いつもの笑顔や腑抜けたような顔ではない。今まで感じたことのない威圧感、それが今の美土里から発せられている。 「君は僕の婚約者。そう言ったはずだけど」 「そ、それは……単なる嘘じゃないですか。ちょっとした間だけのことで……」 「覚悟、足りてなかったね。都くん」 「しゃちょ……きゃっ」  横向きになった自分の腕を掴み、美土里が上乗りになってくる。顔がとても近い。ただでさえ異性とこんなに顔を近付けたことはないというのに、相手が美土里だと考えただけであの淫らな夢を想起し、心臓の鼓動が激しくなる。 「あ、あの、社長……」 「黙って」  美土里は至極真面目に、いきなり雪生の額へ口付けを落としてきた。唇から伝わる熱は、夢の中と比べてよりリアルで、頭がパニックを起こす。額、瞼、頬と次々にキスをされ、困惑は深まるばかりだ。 「都くんは、僕が嫌い?」  薄い暗闇の中、緑色の瞳が自分を射貫く。美土里の言葉、掴まれた肩から伝わる熱に、ただ顔が火照ってしまう。  嫌いかどうか、よく考えたことはない。少なくとも嫌悪は抱いていないと思う。では、好きか。条件づきだが助けてもらったことに恩義は感じている。ときめいたことすらある。とりわけ、淫らな夢を見るたびに、切なさにも似た何かを感じていたのも事実だ。  でも、それが好きなのかどうか、よくわからない。沈黙に耐えかね、怖々と唇を開く。 「嫌い……じゃないと思います。でも……こんなのは、おかしい気もします」  都合のいい女になんて、なりたくはない。そんな思いが言葉を選ばせる。雪生の言葉に、美土里はどこか安堵したように肩を握る力を抜いた。  逃げるなら今だろう。頭の中で響く警鐘に、しかし雪生は動けなかった。動かなかったのが正解かもしれない。なぜ突き飛ばさないのか、それすら不思議なのだけれど。  自分でもわからない感情に支配される雪生をよそに、美土里が両頬を手のひらで包んでくる。とても、温かい。 「嫌われてなくてよかったよ。安心して。これ以上、変な真似はしないから。でも、一つだけお願いがあるんだ」 「お願い、ですか?」 「キス、させてほしい」 「……それ、十分変なことだと思うんですけど……」  真っ赤になってうつむく。これは命令ではない。嫌だと言えばもしかすれば、美土里は大人しく引き下がってくれる可能性もあるだろう。だが、なぜか思い出すのはあのいやらしい夢ばかりで、心臓が高鳴ってしまう。  それを払い落とすように、雪生はもう一度、別の意味で覚悟を決めた。 「キスしたら……満足しますか? マッサージ、ちゃんと教えてくれますか?」 「うん。それは約束だから」  少なくとも美土里は、約束を違える人ではない。それをよく理解してしまっているから、小さくうなずいた。  優しく、片手で頤を持ち上げられた。真摯な視線が自分を見つめている。視線から逃れるため、鼓動を抑えるように目を閉じた。瞼を閉じても、美土里の顔が近付いてくるのがわかる。  それから、ゆっくりと唇が重なった。  はじめてのキスの香りは、微かにアルコールの混じったものだった。  長い、長い口付け。夢の中で教えられた通り、鼻で微かな息をする。唇が熱い。火がついたみたいに。  後頭部を支えられ、角度を変えて続くキスは情熱的だ。夢の中で体験したこととはいえ、実際にするのはこれが初体験。なのになぜか心地よい。それは自分が、美土里を嫌っていないからなのかもしれないと、ぼんやりする頭の片隅で思った。  嫌いじゃないから許したのか。少しばかり、自分にだって下心があるからなのではないか。そんな言葉ばかりが駆け巡る。でも、いくら考えても答えは出ない。  惚ける頭のまま、唇が離れていくのを感じて目を開けた。美土里はそのまま唇を頬にずらし、首筋へと運んでいく。 「しゃ、社長?」 「キスは口にだけするものじゃないよ、都くん」  不敵に笑む美土里はやはり、いつもとは別人のように見えてまた、頭が混乱する。  ――結局その夜、夢の中と同じで体全体を唇で愛された。口に出すのも恥ずかしいところまで愛撫され、気をやったのは、一体どのくらいの時間が経ってのことだったろう。  ふわふわした感覚の中、遠ざかる意識の中で「雪生」と呼ばれた気が、した。
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