2-1.自分の心がわからない

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2-1.自分の心がわからない

 誰かの話し声が遠くから聞こえ、雪生(ゆきな)はゆっくりと閉じていた目を開ける。 (ここ、どこ……?)  茶色いサイドテーブルにランプ。寝返りを打つと、遠くに見えるのはビルの群れ。陽はまだ昇りきっていないが、いつもよりかは遅い時間に目が覚めたようだ。自分の部屋でないことを認識した後、ぼんやりと上半身を起こした。  見慣れぬ周囲を見渡す。それから昨夜のことを思い出して我に返り、慌ててベッドから降りようと絹の掛け布団を剥がした。 「あ……」  顔が羞恥に赤く染まる。紙製の下着もいつの間にか処分されていて、裸体だった。  キスという快楽に流され、喘いで肢体をくねらせた自分が信じられなかった。体を見てみると、そこら中に赤い痣がある。腕、胸、手首にまで。 (や、やだ。どうしよう。これ、消えるのかな)  普段、ほとんど肌を露出しない格好をしているから、胸や腕は大丈夫だろう。けれど手首や足は少し、危うい。首筋はどうだろうか、鏡がなくてわからないけれど。  昨夜はともかく、ひどく乱れた記憶が朧気にある。貪欲なまでに体を求められ達した、わずかな記憶が残っている。それでも最後まではしなかったけれど。 「夢じゃ、ない……」  体に残る鬱血の跡、それらを見て少し呆然としてしまう。  半身を起こし、いつの間にかほどけていた髪を、枕元に落ちていたヘアゴムで結わえたときだ。いつものようにベストに身を包んだ美土里(みどり)が、少し疲れたような顔をしながらベッドルームに姿を現したのは。美土里はすぐに雪生を見て、相好を崩した。 「おはよう、(みやこ)くん」 「お、おはようございます……社長」 「うーん。朝からいい眺めだ」 「……あ、きゃっ」  その言葉に自分が今、裸体を晒していることに気付いて布団をたぐり寄せた。顔を赤くする自分を見てか、楽しそうに笑う美土里はすぐ側に腰かけてくる。手にはスマートフォンがあって、話し声はそこからしていたのだと理解した。 「ど、どなたとお話ししていたんですか?」 「浅川(あさかわ)だよ。連絡も入れずに何してたんだって言われた」  まさか自分と一緒にいた、なんて正直に答えたんじゃあないだろうか。そう思い、焦りで顔を曇らせた。  秘書の浅川とは仕事で顔を合わせている。屈強な体に黒いサングラスを常にかけている、冷静沈着な男。雪生にとっては少し取っつきづらい相手だ。  心の内を読んだかのように、美土里がそっと、遠慮するような手つきで頭を撫でてきた。 「大丈夫、上手くごまかしたから。それより、体は大丈夫かい?」 「は、はい。大丈夫、です」 「じゃあお風呂に入っておいで。さっき湯を溜めたばかりだから、まだ冷めてないと思う」 「……ありがとうございます。でも、仕事が」 「そっちも、今日は都くんは休みだって伝えておいた。疲れてるだろうし」 「そうですか……」  髪を撫でられる心地よさに若干ぼうっとしたけれど、あまり長居をしては美土里の迷惑になるだろう。近くにあったガウンへ手を伸ばし、隠れるように体にまとわせる。 「マッサージの件だけど。本格的に続けていくから」 「……」 「昨日はほとんどしてなかったからね。全身、これからも施術する」 「真面目に教えて下さるって言ったのに」  恨めしく抗議の声を上げれば、美土里が頬に手を当ててくる。 「可愛かったから、つい、ね。でも、約束通りキスだけだったろう」 「それはそうですけど……」  昨日の痴態を朧気ながら思い出し、小さくうつむく。  思考は目覚めたばかりだというのにめまぐるしく回転をはじめ、快楽に流された事実に嫌気が差し、ため息をついた。  それを見てだろう、美土里は雪生の髪から手を離し、人差し指を一本、立てた。 「ところで都くん。もう一つ命令があるんだけど」 「また命令ですか……」 「そう。これは社長としてね」 「社長として? 仕事の件でしょうか」 「仕事に関わることだね。唐突だけど、今日は『グレイス』に行ってきてくれないかな」 「ど、どうして私が『グレイス』に? ライバル店ですよ、あそこ」 「偵察が主な理由さ。客層とかを見てもらいに行ってほしい。後は、全身マッサージを受けて、体に触れられることを慣れてほしいっていうのもあるかな」 「うちの店じゃだめでしょうか。偵察だなんて真似、私、上手くできるかわかりませんよ」 「まあ、後者の理由が大きいから。偵察は二の次で構わない。それにお互い、いい機会だろう? 君はマッサージを学べるし、僕はライバル店の情報を知ることができる」  言われて雪生は考えた。確かに得るものは互いに大きい。だが、どこまでもビジネスライクな物言いに、なぜか少し胸が疼く。寂しさにも似た何か。それをなんと名付けていいのかわからないが、事務員としては信用されている、そう考え直して胸の棘を振り払う。 「わかりました。『グレイス』に行ってきます。でも、あんまり期待しないで下さい」 「ありがとう、助かるよ。初回で指名できたかな、あそこは。紅子(べにこ)がいたらいいんだけど」  急に知らない女の名をつぶやく美土里に、思わずどきりとした。  知り合いの従業員だろうか。いや、下の名前を呼ぶ間柄だ。それより親しいと考えるのが妥当だろう。一度そう考えてしまうと、気持ちが段々、落ちこんでいくのがわかる。 (別にいいじゃない。社長が誰と付き合おうが。私とは、偽の関係なんだから)  思い直し、無言のまま美土里に背を向けてガウンを着た。  確かに一夜は共にした。不本意ながらも。実際に快楽を体へ叩きこまれたせいか、淫らな夢すら見なかった。でも、どこか複雑な気分だ。靄がかった感じがする。 「ああ、都くん。朝食は和食がいい? 洋食がいい?」 「お気遣いは結構です。お風呂を借りたら私、一人で帰りますから」 「つれないね。女性を最後までエスコートするのは、男の役割だよ。ここからじゃ君の自宅、少し遠いし」  ――同じことを、他の人にもするんですか。  そう言いかけて、やめた。美土里が店の従業員にアロマを配ったり、優しい笑みを振りまいたりしていることは周知の事実だ。元カノと名乗る女性とは会ったことはないが、彼の両親からは落ち着きがないと聞かされていたから、そこも察することができる。 「それに何度も言ってるだろう? 君は僕の婚約者なんだ。送ることくらいはさせてほしいな」  普段と変わらず、ヘラヘラとした笑みを浮かべた美土里へ振り返る。昨夜に垣間見た真顔とは対照的で、どちらの(おもて)が本物なのかわからない。 「……もういいです。好きにして下さい」  考えることに疲れて、結局折れた。美土里が余計に笑みを深める。 「じゃあ適当に朝食、頼んでおくから。食べたら君のアパートまで送るよ。さて、お風呂に入っておいで。僕はそのままの姿を見ててもいいけど」 「社長、いい加減にしないと本気で怒りますからね」 「僕はいつでも本気なんだけどな。ま、いいさ。昨日は本当に可愛かったよ」  からかいの言葉に、馬鹿、と小さくささやいて、逃げるようにベッドから立った。  そそくさとバスルームに入り、一人になったときにようやくほっとできた。鞄や畳んだ服が隅っこに置かれたままで、スマホの確認をすることを忘れていたことに、今、気付く。幸い弟からも友人からも連絡はなく、画面をロックして大きく息を吐き出した。 「何してるんだろう、私……」  呟いて、大きな鏡を見てみた。白めの肌に赤痣がいくつも、あちこちにつけられていて、ふと焦る。このままマッサージ店に行ってもいいものなのだろうかと。いや、それはさておき、とんでもないことを美土里としてしまったような気がした。  本当に度しがたい。馬鹿なのは自分だ、そう思う。でも、処女が奪われなかったのには驚きと安堵があった。据え膳食わぬはなんとやら、と昔の格言を思い出したりもする。 「……据え膳にもならなかったのかも」  可愛い、だとか綺麗だ、とか色々言われた気がするが、単なるお世辞に過ぎなかったのではないか。遊びで体を弄ばれた、と言うにも関係が微妙すぎ、考えているうちに軽く、頭痛までしてきた。 「と、ともかく。『グレイス』に偵察しに行くんだから、しっかりしないと」  まとまらない考えを放棄するように、自分に言い聞かせる。  髪や体を洗い、温かい湯に浸かっても、心の靄は晴れそうになかった。
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