レイアウト

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 瀬川の身長と同じ高さのキャンバスは、中々の広さを有するそのアトリエの中にあってもかなりの存在感を放っていた。しかしそれはまだほとんど白いままで、思い出したような青が所々に塗られているだけ。その残りの白の中には、まだ何にも触れられていない場所さえあるように思えた。 「ねぇ、みお?これ……どう?」 「こっちの青に対してさ、その青の黄色味が強すぎる気がする」 「やっぱり?だよね……俺もそんな気がしてた」 「じゃあ、聞かなくてよかったじゃん」 「一応確認。みおは俺のもう一つの視点だから」 「何それ?」 「俺とみおには全く同じ景色が見えてる。みおもそう思うでしょ?」  そう言った瀬川が美織をそっと抱きしめると、油絵の具の匂いが溢れる。昼も夜もないその部屋で過ごしていた三年のあいだ、美織と瀬川は何度もその境目を失くし、きっとほとんど一つのものになっていた。  人間社会の歯車の一部として生きていくには必要な事が多すぎる。そして美織には、生き残るための何かが足りなかった。読まなければいけない空気や、その響き通りに捉えてはいけない言葉。そんなものが羅列するこの世界は生き辛い。それは瀬川も一緒だった。  そんな二人の目に映るこの世界の全ても、きっとほとんど同じだった。  時折美織が感じる空虚さえも、瀬川は同じ様に感じる。身体はどんなに寄り添っていても、互いの足りなさが決して満たされることはない。それでも二人で一緒に居れば、やっと一人分くらいにはなれる様な気がした。    美織と瀬川の意見が合わずに、二人とも声を荒げて喧嘩をしたのは、瀬川が仕上げた絵に入れる自分のサインを「漢字で書く」と言い出した時。後にも先にもその一回だけだった。  それまで瀬川はどんな作品にも白い文字で「gen.segawa」と記していた。彼にはまだ、その名を聞いた人がすぐに思い浮かべられるような作品があるわけでは無かったし、代表作と呼べるものだって世に残せていない。未だその程度の画家である彼が、自身を証明するための印を変えるという行為を、美織は許したくなかった。  結局、この仲違いは美織の説得によって収束し、この時瀬川のサインは変わらなかった。  今になって思い返してみれば、これが二人のあいだに起こった歪みの一番端っこだったのかもしれない。でもその時は、そんな仲違いによって 二人の僅かなズレは整えられ、風さえ通り抜けられない程完璧で、完全に一緒になるのだと、それが二人にとっての最良であると 美織も瀬川も信じてやまなかった。  ただ 否応なく流れて行く時の中で漂うあいだに、二人はあまりにも似すぎてしまった。それはオセロの駒の表と裏が白と黒であるのと同じ様な 表と裏。別れてしまえば役に立たず、かといって混ざり合えば灰色になって、その存在の意味すら成さない。同じものであるはずなのに、背中合わせでいるせいで、お互いがみえなくなっていた。  二人でやっと一人分のような彼等はすれ違うことさえ難しく、一人分では満たされない部分を自分達以外に求めてしまうのは必然だった。瀬川の吐く小さな嘘も、それに至るまでの感情でさえも、美織には容易に理解することが出来たし、それを咎めるつもりもなかったはずだった。 *  「また、描き直せだってさ」 「え?だって……でもまあ、手を加えれば加えただけ良くなることもあるとは思うけど……どんな風に直せって?」 「……これ」 「なにこれ?ここを赤になんかしたら、この絵の主題はどうなるの?ゲンだって、そこは直す必要はないって思うんでしょ?」 「これは依頼されたものだから……直すよ」 「それじゃあ、これはゲンの絵じゃなくなっちゃう。そこまでして応える必要なんてない。もう、この依頼は断っちゃえばいいじゃん」 「そういうわけにはいかないよ。いいんだ、大丈夫」  瀬川の絵は徐々に売れ始めていたが、画家だけで食べていく為には依頼に沿った絵を描かなければならなかった。依頼主に加え、間に入った会社からのまでをも受け入れてから ようやく仕上がりを迎える。      そうして出来上がった「gen.segawa」の絵は、美緒にしてみれば彼の絵ですらなかったし、瀬川にとってもそれはもう、自分の作品ではなくなっていた。 「大丈夫じゃない。ゲンだっていつも言ってたじゃん。人間なんて、手の平を返す生き物だって。そうでしょ?だから世に出られるまで自分を信じて続けてれば、いま描いてる作品だって評価してもらえる時が来るんだよ。なのにゲンは、どうして自分らしくないものを創るの?  ───そんなの、違うじゃん」 「大丈夫、わかってるって。だから……大丈夫」  美織のそんな主張が、瀬川にとっての救いだった。何があっても美織だけは自分の全てを同じ様に理解してくれる。写し鏡が映す うわべ だけではなく、自分では見ることが出来ないほどの深層に沈んだ感情でさえも美織には気付いてもらえるのだ。  だから「大丈夫」なのだと。    瀬川はそう自分に言い聞かせると、何時ものように美織を抱き寄せる。肩で息をする美織が徐々に穏やかな呼吸に戻る。二人の鼓動はほとんど同じようなリズムを奏で、やがて ひとつ のものになった。 「ゲン……ぜったい無理は……しないで」 「わかってる。ごめんね、みお……」  その頃、あのキャンバスには深い夜が落ちはじめ、そこには満天に星空が広がってゆく予定だった。  しかし、瀬川が「大丈夫」と言いながら美織を抱きしめたその時から、キャンバスには星どころか油絵の具の一粒さえ落ちずに、その夜はもう それ以上増えてゆくことはなかった。
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