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その部屋に入った途端、美織は味の無いバターを口の中に塗りたくられている様な感覚になった。
しばらく放置されたままだったキャンバスの側の床に座り、調色している瀬川の後ろ姿はいつになく明るい。同じ部屋に在るはずのその姿が、なんだか酷く遠くにあるような気がした。
「ゲン……?また、描けるの?」
「あっ、みお……実はそうなんだ」
「そっか」
「うん……もう、大丈夫」
久しく触れられていなかったキャンバスに絵の具の溜まった平筆の先が触れる。
美織が口に出せなくなった言葉はまるで溶けない氷のように、そのまま喉の奥に詰まっていた。キャンバスに少しずつ増える色とは反対にその部屋の酸素は色褪せてゆく。
美織はその「大丈夫」が今までのとは全く意味の違う「大丈夫」だということを知っていた……
瀬川との会話の中に「古見さん」がよく登場するようになって、その呼び名は何時しか「凜華さん」になっていた。自分たちとはあまりにタイプの違うその人のことを、最初こそ警戒していたような瀬川だったが、次第にそのことを楽しんでいる様な口調で話すようになる。
そしてその後、ついには瀬川と美織の会話の中に「凜華さん」が登場することはなくなった。
その原因が、瀬川と凜華の接点がなくなった所為ではなく、むしろ別の絆が生まれた証拠であるということに 気付かないわけがなかった。でも、二人ともそれに触れなかった。それが瀬川のためであり、美織自身のためでもあったから。だから、二人揃って見て見ぬふりをする。どちらかが触れてしまえば崩れてしまう。そんな風に危い感情を塗り重ねてしまったばかりに、すっかり脆くなってしまった。
それでも美織は何時までもどこかで諦めきれずに、瀬川の体温を求めることを止められなかった。少し前、ほんの少しだけ前のあの時のように、また二人は溶け合えるんじゃないかという希望は消えず、美織だけが虚しい夜も積み重なってゆく。
*
もう、美織が瀬川の腕の中にすっぽりと包まれていても、その肌が直接触れ合っていても、二人の体温の間には 一枚のビニールが挟まっている様な感覚がしていた。
瀬川と凜華が既に身体を重ねているかどうかはわからなかった。でも、瀬川の靄がかった体温からは、美織がもうその心の中に居ないことが伝わってくる。
「ゲン……あの絵のことなんだけど……」
「ん?」
「もう、私のために描かなくていいよ。そりゃ、自分の為に絵を描いて貰えるなんて嬉しいけどさ、あの時と今とでは……違うでしょ?」
「どうして急に?そんなこと……?」
「あの夜の絵は、もうゲンの描きたいものじゃなくなってる」
二人で積み上げた『見ないふり』に美織が触れたその瞬間、透明なバランスが音を立てて崩れ落ちた。驚きと焦りの混じったような瀬川の瞳は見開いて、美織はその目をじっと見つめる。
「なんで……わかったの?」
「そりゃわかるよ。私はゲンのもう一つの視点、なんでしょ?」
「そ……っか、そうだよね」
「そうだよ。それに、私だって表現者だから……わかる。影響を受ける人が違くなれば、見えるものが変わるってことも」
「どういう意味?」
「ゲン、好きな人いるでしょ?」
「……」
「やっぱり……私はゲンのこと、ちゃんとわかってるよね?」
「……違うよ、みおは何もわかってない。好きな人なんていない。みおのことを愛してる。それに、みおと一緒にいないと、ダメなんだ……」
ずっと避け続けてきた別れの気配が美織と瀬川のあいだを通り過ぎた。
それを察した瀬川の鼓動が跳ねる。その夜にやけにうるさく響く心臓の音を、どうにかして止めてしまわなければいけないとさえ思えた。それなのに美織の視界はやけにクリアになって、いまさらながら愛していたことに気付く。そんな言葉にしない当然の愛は、美織が今まで思い描いていたものとは違った。だから、二人のそれまでが間違いだったということにも気が付いてしまった。
「……そんなことない。ゲンはもう、大丈夫だよ……うん、大丈夫。
──私とゲンはさ、きっと同じ形をしたパズルのピースなんだよ。重ねれば一つになれるけど……それじゃ、ずっと欠けたまんまで足りないの。だから、いつまでもそのパズルは完成しない。嵌らない。合わない……だから、それぞれにちゃんと合うピースを見つけなきゃいけなかったのに……」
「なんで……」
「あとね、私たちって二人とも、自分が唯一無二の存在だってことに自信が持ててない。そんななのに創作なんてしているから余計……自分の感性に自信が持てない。だから、そっくりで、もう一人の自分みたいな存在が側に居ると安心するの。安心して、慰め合って、自分のことを認めてあげられない代わりに、私はゲンに、ゲンは私に、依存する。そうやってずっと同じ場所で重なったまま、思いやるふりして自分のことを守って、いつまでも完成しないパズルを眺めてる」
「もし……もしそうだったとしても、それのどこがいけないの?」
「私たちがいくら一緒に居ても、もう、何も生まれないってことだよ?そんなのは愛じゃない。それに……いま動けてないのは私だけで、ゲンはもう大丈夫だから。自分以外の中からちゃんと見つけられたんだと思う。だから、また描けるようになったし、描きたいものも変わった。大丈夫、自然な事だし、良いことだから……」
「違う。大丈夫なんだ……みおを想う気持ちも、自分自身だって、何も変わってなんかいないよ!」
「もうやめて。もういいから……大丈夫って……言わないで。だって、ずっと描けてなかったじゃん……でも今、また描けてる。この間にある違いは私じゃない。だから、そんな風に変わっちゃったゲンとは、一緒に居たくない」
「みお……嫌だ」
「自分勝手でごめん……」
その夜はまだ明けようとはせず、色調も失くしたままで更けていた。必要としている場所に必要なものがちゃんと行きわたりさえすれば、きっとみんな幸せになれる。手放すだなんて傲りが美織にあったわけではないが、「まだ繋いでいたかった」と自覚したばかりの手は、離すことに決めた。
これからは、自分という枷を外してあるべき場所へと行けるように……
「──さよなら」
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