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「そうだね。ホント…私も、強がってただけみたい。だってさ、別れを告げたのは私の方だし、あの時に自分の気持ちも終わったと思ったんだよ……いや、違うか。私は、そう思い込みたかったんだ。
──きっとあの時はまだ、ゲンの心変わりが悔しくて、ゲンの気持ちを持ってっちゃった凜華さんが憎くて、嫌いで……私じゃなくなったのが、惨めで……だから、この別れはゲンの為だって、それに私も もう好きじゃなくなったって……そう思い込んだし、自分の失恋からも目を逸らした……」
そんな風に言葉にして口から出すと、流石に少し古傷がひりつく。喉元まで過去が戻ってきて、痛くて思わず泣きそうになる。
しかし、陸人の想いで溢れた熱に浸されて、美織は「陸人に愛されている」という自信を手にした。その言葉をしっかりと握り締めることで、自分の深層に潜る事ができた。だから、ずっと忘れようともがいていた傷が、もう痕だけになっていることを確認できた。
そこには確かに傷痕がまだ遺っている。でも、陸人の想いを一身に浴びた今ならば、そこに誰が触れたとしても、例え強くつねられたとしても、もう痛みなど感じない。
「陸人の言う通り、私はあの失恋で傷ついてた。今日までずっと、その傷を見ないふりして忘れちゃおうと思ってた。それなのに……たぶん私は無意識にそこをいつも弄ってたんだね。血が止まって瘡蓋ができる度に少しそこを引っ掻いて、忘れたいはずなのに、まるでわざと忘れられなくするみたいに……だから、今はもうその傷はすっかり塞がって、治ってて、痛くも痒くもないのに、その痕だけはしっかりと遺っちゃってるのかもしれない。でもね、私には……陸人が居てくれるから、もう大丈夫なんだ」
瀬川と別れ、喪失感を抱えていた美織の側に寄り添っていてくれたのはどんな時も陸人だった。だから、その腕の中で 過去の失恋のために泣くのはやっぱり違うと思った。
「美織……泣いていいんだよ?」
「ありがとう。でも、本当に大丈夫」
美織のその言葉はちゃんと本心で、嘘でも強がりでもなかった。しっかりと向き合ってみれば、既に色褪せ始めた想いによって湧き出した涙なんて必死で堪えるまでもなく、目の前の愛に呆気なく溶けて消えてしまっていたのだから。
「そういうとこ。美織は何時も自分のことを後回しにしてる気がして心配なんだよ……俺から言わせてもらえば、他人なんてどうでもいいから、自分にもっと優しくして欲しい。俺が大好きな美織自身のこと、もっともっと大事にして欲しい」
「ふふっ、なにそれ?」
「ただの愛の告白」
「そっか……ありがと」
「あーあ。ほんとダサいけどさ、美織の中にある彼の痕跡を、俺のちからで消せないって事はわかってた。だから、ここで彼の絵を美織と一緒に見たら、絶対に卑屈になると思ってたし……まあ、実際卑屈になったしね?」
陸人は美織を強く抱きしめたままそう語ると自嘲気味に笑っている。美織はその嫌味のない熱気に窒息しそうになりながらも、どうしようもない心地良さにはもう抗う事ができなかった。
「でももう、なんでもいいや。どう頑張ったって 俺は美織と同じ景色を見ることはできないんだから、こうして真正面から向き合うしかない。だから……この先もずっと、こうやって美織のことをそのまま丸ごと包むよ。それに、美織は自分のこと全然大事にしてくれないっぽいし、その分俺が 美織のことを大事にすることにした……いいね?」
「……」
「まあ、ヤダっていっても勝手にするけどね?」
「じゃあ、聞かなくてよかったじゃん」
「いいの。これは俺の宣言だから。それに、言葉にして伝えなきゃ……俺たちは、どう足掻いたって別々の人間なんだから」
「そっか、そうだよね……あのね、陸人」
「ん?」
「心配しなくても、私はもう過去には戻らないよ?それに……陸人がこうして与えてくれる想いにもちゃんと応えたい。だから、これからは私が私であることにもっと自信を持とうと思う。そんで、ちゃんと自分のことも大事にする……あっ、でも、陸人にこうやって甘やかされたままでもいいけどなぁ……」
「ははっ、素直でよろしい。もちろん、どんな美織になったとしても、大事にさせて頂きますよ?」
「そんな……流石にそこまで想って貰えるほどの人間じゃ……あっ!」
「おっ?気付いた?」
「うん……」
「偉いえらい。でも、焦らなくていいよ。ちょっとずつ変わっていく方が長く楽しめるし……」
「ふふっ、なんか……それって」
「なに?」
「……っ、まだ教えない」
「まだ……ね?」
「うん。まだ……」
美織はそこまで言うと思わせぶりな顔で微笑む。それを見た陸人は、何故だか至極満足そうな顔をしていた。
過去の失恋に向き合った美織にみえたものは、今ここに確かにある、陸人の揺るぎない愛情だった。差し込んできた西日によって長く伸びた影は定位置を見つけ、それはぴったりと嵌っていて、二人の間の境界線など とっくに溶けてなくなっている。それでもその影は、二人分の輪郭をくっきりと保ったままでいた。
あの傷あとを遺したままで、美織の心はすっかりと緩み、今はただ穏やかで適温の愛に満たされている。
それはきっと、これからもずっと……
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