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エピローグ
扉の外は落ちかけの太陽と夜の混じった匂いがした。昼間の熱を冷ましていく青が、木漏れ日を湿らせ、足元の土が香り立つ。
「さっきね、ほら、あの絵のところで陸人が私に声をかける前……本当はちょっと泣きそうだった」
「……知ってる」
「あの時は誤魔化すみたいになっちゃったけど……でも今は、ちゃんとわかるよ」
「うん。そっか……それ、聞かせてくれる?」
「ありがと……あのね、彼のサイン、漢字で書いてあったの。それも本名の漢字じゃなくって、まぼろしって読む方の『幻』だった……付き合ってた頃にさ、唯一大ゲンカしたのが彼のサインのことだったんだよね。まだ売れても無い彼が、その印を変えるって言い出したことをどうしても許せなくて、その時は理由も聞かずに無理くり説き伏せた。その頃から彼は、あの漢字で自分を表現したかったんだと思う。それをきっと……凜華さんが許してくれた。あの絵は、そんな事まで私に伝えようとしてきた。だから、私の中で嫉妬が渦巻いたような気分になって、ちょっと泣きそうになってた……」
「そっか……」
「でも全部……何もかもが私の思い込みなのかもしれないって……今ならそう思えるんだ。だって、ゲンの感覚に似ていたのはあの頃の私で、しかも、いつも答え合わせが出来る状況だったからこその感覚だった。だから、今の私がどんなに想いを寄せたとしても、今のゲンの気持ちなんて、ぜんぶ私の想像でしかないんだよ……」
美織が自分の恋心を閉じ込めて、無理くり吐き出した「さよなら」はいつの間にか呪縛になり、別れを上手く消化できなくしていた。その所為で美織は知らぬ間に過去に囚われて、いつまで経っても瀬川を自分の分身のように感じてしまっていた。
そんな事にようやく気が付いた美織が振り返ると、茜色がその姿を優しく包む。
「陸人があの失恋に向き合う勇気をくれて、そしたらあれは、私の中でちゃんと過去になってた。今まで見ないふりをし続けてきた 私だってそうなんだから、向こうだってそうだよね?」
夕焼けを背負う美織は少し眩しくて、陸人は思わずその目を細めていた。
「そうだね……うん。そうであって欲しいと思うよ」
「あれ?どうして今のでそんな弱気になったの?もう、湿っぽいなあ……ほいっ?」
そんな陸人の眼差しが何故だか凄く照れくさくて、美織は誤魔化すように手を差し出した。陸人はその手を迷うことなくとり、徐に指を絡めとる。そんな二人の表情に差し込む光の彩度は高かった。
「ふふっ……私もね、もうなんだっていいや。こうして陸人と手を繋げてる今がある。それだけで、もう十分」
「ああ、いいねそれ……なんかやっと美織自身と付き合い始められた気がする」
「何それ?じゃあ、今までは?」
「うーん、元カレ入りの美織?……って、言わせんなよ」
「ははっ、なんかそれ気持ち悪い……くくっ、でも面白っ……ねぇ、陸人ってさ、けっこう嫉妬深いよね?」
「美織は知ってたはずだよ?俺が嫉妬の塊だってこと。だってさ……美織の元カレの名前を、今までずっと……頑なに口に出さないくらいだし」
「そう言われてみたら……そうかも!」
「そんな、ちっせえ男なんだよ。あー、かっこわる」
「いや、なんかそれ、凄くいいよ」
「そうなの?」
「ああっ!」
「どうした?」
「ちょっと、話の展開が降りてきた……早く、もう帰ろう?」
「え?そんな急に?」
「あのね……私に見えているものが変わったみたい。今ならきっと、満足できるものが私にも描ける」
「なるほど。そういうことなら、急がないと……」
美織のそんな感覚を陸人が同じように感じることはない。けれど二人が繋いだ手の中では、確かな温度と共に互いの想いが溶け合っている。
「大丈夫?こんな風に私、どんどんワガママになるかもよ?」
「全然大丈夫。そんなの大歓迎」
「陸人の『大丈夫』は、全面的に信じられるんだよな……」
「ん?何か言った?」
「……陸人が大好きって言った」
「わお。レアじゃん……嬉しい」
足早に歩きだした二人の影を新しい夜が飲み込んでゆく。温度のあるその夜は奥行きのある星空になって、あるべき場所に広がっていた。
【終】
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