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もう何時間もその画面上の文字数は増えていない。
白井美織は、その明るくて白い画面を見限ると、ため息交じりに画面上のバツ印を押した。
昨日までは調子良く描けていた様な気がする。美織の頭の中で色鮮やかに上映されていたはずの物語は、今日になって急に展開しなくなった。すると途端にそもそもこの物語の全てが最初からどうも ありきたりでつまらないものに思えてしまった。
「何も、今日じゃなくても」
一人きりの部屋で呟く声は、ごく小さくても何故か響く。
吸い込まれた画面に変わって現れた 平面で奥行きのない満天の星空を眺め、美織はもう一度溜息を吐き出した。
「本当にどこまでも、私たちは合わなかったんだろうな」
そう自分に言い聞かせることで美織はやっと立ち上がって約束の場所へと向かうことができる。
*
目の前には吸い込まれそうな空が広がっていた。自分の背丈よりも少し大きいキャンバスの前で、美織は思わず息をのむ。
朝陽が差し込み僅かに白け始めた街並みの上には、淡いフラミンゴ色の朝焼け。その先にひろがる濃紺はその光に追いやられ、夜の痕を残しつつも その色はもう薄らいでいる。その絵に込められた感情がどんなものなのか、美織には手に取るようにわかっていた。
あの頃 夢にまで見ていた賞を彼が受賞したというニュースの中で、美織は初めてその絵が完成したことを知った。
画面越しにそれを見た時には、今よりも穏やかにその受賞を喜ぶことが出来た美織だったが、いざ実物を目の前にすると、彼の作業場で嗅いだ油絵の具の匂いが鼻の奥に呼び起こされ、何だか居た堪れなくなってしまう。
あの部屋にあった頃のそれは、まだほとんど白いままのキャンバスだった。そこに少ずつ夜の色が描かれ始めた頃、美織は瀬川現と別れた。あの時の色は幾重にも重なりあう絵の具の奥底に沈み、もう今は全く別の色に見える。
思わず美織が視線を落とすと、その先の左の隅には小さくサインが入っていた。それは辛うじてその絵に溶け込むような色を使ってはいるものの、この作品には少々似つかわしくない漢字で記されている。
「そっか……良かったね」
懐古に潜り始めた美織の指先が伸び、そのサインに触れる寸前で止まった。
ふと我に返った美織は思わずその手を握り締め、手の平に爪の先が食い込んでゆく感触をひとりで味わう。
「……大丈夫?」
気が付くと美織の隣にはいつの間にか温かい気配が立っていた。美織はその顔色を確認するために少し顎を上げて見上げる。
「陸人、ごめん。大丈夫だよ」
「やっぱり……まだ早かったか?」
「それ、いったい何回目の確認?そもそも私がここに来たいって言ったんだし」
「そうだけどさ、美織が今にも泣きそうな顔してたから……」
「まあ、こんなの実物で見たら、結構みんな感動するでしょ?」
「確かに。ちょっと悔しいけど、圧巻だよな」
「悔しい?……なんで陸人が悔しいのよ?絵なんか描いたこともないくせに」
「ははっ、俺の絵はある意味芸術だしね?」
「ホント、ある意味ね」
「だからかな、悔しくなる。絵心のない俺には、美織と同じ様にこの絵を感じられない気がして」
「私だって、そんなに絵は得意じゃないよ?」
「でも美織は小説が書けるでしょ?あれだって、頭の中の世界を描き出してるじゃん。美織もそうやって、ゼロからイチを生み出せる人なんだよ。この人と一緒……」
陸人はそう言いながら目の前の絵から視線を逸らした。
「まあ、簡単に言えば、美織の元カレに嫉妬してるだけなんで」
気を取り直したような声色とは反対に、陸人の表情は陰っている気がする。
「嫉妬って……私は、ゲンのこと何とも思ってないよ?別れてから全く連絡も取ってないし、あれからもう、二年も経ってる」
「……そういう嫉妬じゃないんだな。大丈夫、美織が俺のことを好きでいてくれてる自信もあるしね?」
「じゃあ……」
「なんか、俺じゃ永遠にわからない部分で、美織とこの人は通じ合うんだろうなあって思っただけ。なんか、湿っぽい。この話はもうやめにしない?」
「ごめん」
「んや、俺こそごめん。
───あっ、あっちにさ、美織が好きそうなオブジェが展示してあったよ。ほらっ、行こう?」
「そだね」
陸人が「ほいっ」と言いながら手を差し出すと、美織はその手を迷うことなく取る。直ぐに二人の指先は絡まって、その温度によって美織の心は解れていくのだった。
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