黄金の林檎

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「忘れられるわけがない。どれだけ時間が経とうとも、あの地獄はずっと私の内に合った」 飲み込んで、忘れようとした。ぬらりひょんと共に世界中を歩き回った幸福な記憶を。あの時の林檎みたいに。大事に。大事に。両手で握りしめてきたけれど。 ふとした拍子に、忌まわしい記憶が気泡となって。忘れるなと、警告するが如く浮かび上がってくる。 「…………忘れたくても、忘れられなかった。鎖の重さ。窓のない暗い部屋。あの男に触れられた恐怖。聞くに堪えない(呪い)の言葉が」 ──ずっと消えてくれなかったんだ。 松永泉の瞳が揺れる。は、と小さく吐かれた息が白く溶けた。 「……私と、同じ?」 「……一緒だよ」 自由を奪われ、生き物の尊厳を踏みにじられて。目眩がする様な絶望の中で、ただ息をして生かされ続ける。 そんな絶望から救い出してくれたのはぬらりひょんなのに。 「君がくれた林檎(選択肢)に縋って生きてきた。……ねぇ、ぬらりひょん。君もあの男と同じ事をするの」 金色の瞳は相変わらず美しく、命の輝きを灯しているのに。 「……私を置いて行くの」 肺が凍り付いてしまったかの様に空気が上手く吸えなくて、頭がくらくらした。 「……置いて行ったつもりはねェし、お前は極端過ぎィ。そもそもあの時、お前がオレを選ばざるを得なかったみたいにさァ。松永泉も今はオレに保護されるしかないワケ。だったら話役はお前が適任だろォ?」 「……君が一番、私が向いていない事を知っているじゃないか」 私は、ぬらりひょん以外の他人と深く関わった事がない。 誰かと繋がる事で、またあの地獄へ引きずり戻されるのでは無いかと、ずっと怯えていた。必要以上の繋がりを持たない様徹底的に、神経を尖らせて。一線を引いてきた。 「そもそもこういう場合は、同性を傍に置くのか普通じゃないの。監禁してた人間が男なら、私がいたら怖いに決まってる」 「……お前の口からそんな言葉が聞けるとは思わなかったなァ」 煽る様な口調の割に、浮かべられている笑みは穏やかで。昔、私が何か出来る様になる度に向けられた笑みと同じものだった。 ぬらりひょんにとって、自分は未だに小さい子供なのかと憤りを感じるけれど。それがぬらりひょんの愛情だと理解しているから、気恥しい。 羞恥心に耐えきれず逸らした先で、救いを求める瞳とぶつかった。 目まぐるしく、あの地獄が脳内で流れては消えて。最後に流れたのは、分厚いカーテンによって光が遮られた、薄暗い部屋。その部屋の隅で小さく身体を丸め、息を殺している松永泉の姿。まるで、昔の自分だ。 無理だと告げるつもりだった。 だけど今日、何度も感じた既視感がそれを許さない。松永泉の手を振り払う事は、昔の私を殺す事と同じだと気付いたから。 手を離された先に待つのは、死よりも辛い地獄だけ。そこに落とされる恐怖は、想像に難くない。 ぬらりひょんの意図をやっと理解した。 だから、覚悟を決めた。 松永泉を救う為に。そして何より、私自身が前に進む為に。 治る気配のない傷の痛みを抱えながら、それでも前に進む覚悟を。 繋がれたままの手に、細心の注意を払って少しだけ力を込める。 「……私は、気が利いた事は言えないけれど。その代わりに、君が感じた恐怖を受け止めさせてほしい」 同じ傷を抱えているのなら、きっと分かり合えると信じて。拙くても、丁寧に言葉を紡いだ。 松永泉の歪んだ瞳から、痛みと安堵が形となって伝うのを見て。凍えていた心に火が灯るのを感じた。 「……君を守ると、この血に誓うよ」 その途方もない闇から。害する全てのものから。吸血鬼である私にとって、最上級の誓いを君に。 間抜けた顔をするぬらりひょんと配下達が視界の端に映って、口角が上がる。後で極端だと小言を並べられるだろうが、これでいい。私がこうしたいと選んだ(望んだ)のだから。 「……ありがとうございます、イヴさん」 真っ直ぐ私を見つめる瞳には、最初に見た時の様に、命の光に溢れていた。 あぁ、たったこれだけで。世界はこんなにも輝いている。
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