黄金の林檎

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怒り狂った蚊が地を蹴った。 右へ。左へ。 狭い路地裏を上手く使いながら攻撃を仕掛けてくる蚊は、なるほど。下級の中でも少しは出来る方らしい。動きもまぁ、悪くなければ、頭も悪くない。 だけど私の敵ではなかった。私を楽しませてくれるほどではない。 伸びてくる鋭利な爪がゆっくりと迫る。顔を逸らして避け、軽く腕を払う。 「なっ!?」 たったそれだけ。蚊の腕が吹き飛び、硬いコンクリートの上に転がった。 ほんの一瞬、蚊の動きが止まった。眼球が私から自らの腕へと動く。 「純血()相手に余所見とは、随分余裕だね」 「ぐぁ、は、はな、せ……!」 首を掴まれ。壁に押し付けられ。絶体絶命に陥ってもなお、消えない抵抗の意思。 「……へぇ」 面白い。 命よりプライドを選んだ時は、期待外れだと落胆したけれど。 「……いいね、いいね! 面白いものを見せて貰ったよ。お礼に、そこまでして貫くプライドごと殺してあげる」 ひゅう、と鳴ったのは。風か。それとも目の前で顔を白くさせた蚊か。 「楽しい時間をありがとう」 「あ、まっ」 ぱちん。 鬱々とした空気漂う路地裏には似合わない、可愛らしい音を立てて。一匹の蚊は、吸血鬼は絶命した。 林檎飴に飛び散ってしまった返り血を舐める。砂糖と血が混ざって、酷い味だった。仕方がないから、残りをさっさと食べてゴミを燃やして消す。 「……さて」 仕事は終わらせた。 こんな陰気な場所に長居はしたくないし、もう一つも終わらせてしまおう。 未だに冷たいコンクリートの上で、呆然としている女と目線を合わせた。 怯えるでもなく私を見る瞳を見つめ返して、上着を脱ぐ。 「これ、着ていいよ」 「……え?」 不思議そうな顔をして。私から上着へ、そしてまた私へと女の視線が交互に行き交った。 「寒いでしょ?」 大きく、ゆっくりと女は瞬きをする。その度に長い睫毛が白磁の様な頬に影を落とした。 それを眺めながら、理解できなかったのかと。今度はもっと直接的な言葉を使おうと口を開いて。自分の惨状にようやく気付いて、短い悲鳴を上げた女に閉口する。 「あ」とか「う」とか意味にならない音を発しながら。無残に引きちぎられて原型を留めていない、ただの布と化した物ごと身体を隠す。 ……必死に隠してはいるけれど。折れてしまいそうな華奢な腕では、豊満な胸も美しい曲線を描くくびれも全然隠せていなくて。何だか可哀そうになってきた。 仕方がないから上着で女を包んで、ボタンをとめてあげる。 「……ありがとう、ございます」 蚊の鳴くような声で呟いた女の頭を撫でて、スマホを取り出す。 「仕事終わったし、私はそろそろ帰ろうと思うんだけど。君はどうする?」 「……あ」 「警察に保護してもらう?それか家族とか恋人とかさ、誰かに連絡して迎えに来てもらってもいいよ。それまでは一人にしないから、そこは安心してね」 騒ぐ気配もなさそうだったからその選択肢を提示した。まともな選択肢を提案したつもりだった。 だけど、女の顔色が赤から青に変わる。血の気が引く音を知覚出来るんじゃないかと思うくらいの変わり様だった。 そんな怯えられる提案をしたわけではないはずだ。寧ろ模範的な提案だったのではないか。 訳が分からないまま、身体を震わせる女の頭を撫でた。 一瞬、身体を大きく震わせて。恐る恐る上げられた顔と見開かれた目。恐怖で輪郭が滲んだ瞳が私を映した。 その姿に、その反応に。炙られる様な胸の痛みに襲われる。 手元にあるスマホが盛大に鳴ったのは、そんなタイミングだった。
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