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 友人のKから聞いた話。  彼女が看護師として働くN県M市の病院には、死神が出没するらしい。  面会時間も終わりかけた夜の病院で、ひとけのない廊下に足音が響くことがある。  カツン、カツンと言う革靴の音がナースステーションの中にまで這いこんでくると、看護師長は決まってすばやく立ちあがり、何も言わずに廊下に出て行く。  それと同時にナースステーションの外で足音は止まり、沈黙が流れる――いや、耳を澄ましてみれば、廊下からは低い男の声がボソボソと何事かを言っているのが聞き取れる。  しばらくすると、カツン、カツンと硬い足音がナースステーションから遠ざかっていく。  師長は何事もなかったかのように戻って来る。  そうして「誰それさんからは目を離さないように」と入院患者の名前を挙げて、看護師たちに注意を促す。名前を挙げられた患者は、たとえ退院間近の容態であっても、一日経たないうちに必ず突然死するのだという。  他の職員が質問をしても師長は何も教えてくれない。  ある若い看護師が足音の主と師長との会話を覗き見たところ、廊下には真っ黒い影がぬうと突っ立っていたという。  それで病院の看護師たちの間では、死神が連れて行く死者を予告しに来ている、という暗黙の認識が広まっているらしい。 ***  一年前に自分が載せたSNSの投稿を読み返して、私は首をひねった。特段おもしろい話とは思えない。証拠のないあたりが実話らしいといえばらしいが、怪談と呼ぶには恐怖に訴える要素が少なすぎよう。  取材を申し込まれたことは確かに嬉しいが、こんなおもしろみのない、しかも昔に掲載した話のどこに興味をそそられたのだろうと疑問が浮かんでしようがない。  『黒檀(こくたん)』というハンドルネームで実話系の怪談を投稿し始めて二年ほどになる。実話怪談が昨今の流行りであることは知っていたが、取材を申し込まれたのは初めてのことだった。中でもなぜこの病院の話に目を付けられたのかが解せない。  実話怪談と銘打ってはいるものの、私が発表する話はすべて創作だった。  自身がいわゆる“霊感体質”ということもない上、怪異を体験したことのある知人などそうそういるものではない。有名な怪談師であれば体験者の方から話を提供される機会も多かろうが、私のような一般人には夢のような話だ。  私の感覚では当然のこと。現実に怪異などない。感じないものは存在しないに等しいから。実話怪談を体験することなど一度もないし、これからあろうなどと想像だにできない。「視える」だの「霊感がある」だのと自称する人間が何を考えているかなど、とうてい理解はできないだろう。私だけでない、多くの人間はそうであるはずだ。  にもかかわらず、人は「本当にあった」というラベルを欲しがる。実体などはどうでもいい。気にかけるのはただ、いかように発表されているかだけ。幽霊の痕跡を感じさせる映像や音声を視聴しては「これは本物か? やらせか?」などと口先で疑問を呈するばかりで、自ら裏付け調査を行うほど熱意を持っているわけでもない。  だから、いかにも実話らしい、できすぎていない曖昧な話をこしらえて、「これは実話である」と銘打ちさえすれば人を集めるには充分なのだ。  不遜な態度であることは自覚している。だからこそ、私の創作話に興味を持ったという人物に、私の方も好奇心をそそられていた。  ペテンを見抜かれているのではないか。いわゆる“本物”の人間が指摘しにくるということではないか。もしもそうなら、私にも新たな現実が訪れるようになるかもしれない。ありえるはずのなかった異物が私の五感に侵入することがあれば、理解しがたいと信じていた彼岸の住人になりうるかもしれない。  私がしていたのは、一種の降霊術だったのだろう。
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