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その一
この道を抜けると森である。
おそろしい夢を見た。
“お前はあの森で重大な忘れ物をしただろう、知らなかったのか、あれは替えが利かない貴重な代物なのだ、蔽そうとしたのかも知れぬが無駄だ、全部わかっている、とりにいけ、いますぐとりにいけ──。”
夢のなかで私は誰ともわからぬ誰かに一方的に責め立てられているのである。余りのおそろしさに、私は飛び起き、飛び起きたままに夢中で走ってここまで来たが、なぜか私の衣装は上質のシャンタンにエナメルの革靴であった。
この道を抜けると森である。
来た道を顧みると、ゆらゆらと如何にも目眩がしそうに陽炎が揺れる一本道だった。対して、これから入ろうとしている森は光など一縷もないように思えるほどに暗く翳っているのだった。
そもそも、私は忘れ物や隠蔽に心当たりはない。完全にあの声の主の言い掛かりだ。それなのに、たかだかの夢を真に受けて、衝動的に従ってしまった。そしてそのまま分からぬ何かを求めてあの先の森に入って、分からぬ何かを探し、見付け、返すのか。誰に返すのか。
この場所まで来るうち、恐ろしさは次第に薄れ、呆れと怒りと、やってやろうじゃないかという半ばやぶれかぶれな興味の方が勝ってきていた。実のところ私の心は愉快だった。さあ、と一歩踏み出す。森の入口は目前なのである。
*
意外にも森は、すんなりとわたしを受け容れてくれた。入った途端、まろやかな湿度にふわりと包み込まれる。靴裏を通して感じる土の感触がやわらかい。生きているのだ。
──生きている。
自分から出たその言葉にどきりとした。生きている。
深い森のため息が聞こえる。木の幹のぺりりと剥がれそうな表皮を目で追って、自然と見上げる、濃色の針葉樹ばかり。針のような葉であるのに、空間は隙なく埋められて空が見えない。でも光は、かろうじて届く。
わたしはどこに進むべきか。考えても分かりっこないから、思いのままに進むことにした。
“ぶなの森の葉隠れに宴ほがい賑わしや”
愉快な心のままに口遊みながら進む。くちびるに添える音はさえずりのように響く。実際の小鳥のさえずりに混じって、わたしはついばむ小鳥のように曖昧なまま彷徨う流浪の民だ。
落葉を踏み分けながら考える。“取りに行け”とそれほどまでに言うのなら、夢の声の主はせめて道しるべくらい用意してくれても良いではないか。この森には獣道すらないのだ、これでは何の手掛かりもない。いや、あの声の主の言い分では、隠したのはわたしだというのだから、自分で知っていて当然ということになるのだろうか。まさか本当に流浪の民のように四十年も彷徨い続けることにはならないだろうが……と暗い気持ちがわずかに生じ始める。
それにしても。
夢の中のわたしは、言い分を聞き入れもされずひどく叱られていた。
夢の中のわたしは、どうしていつも子どもの姿なのだろう。
どうしてあんなに無力なのだろう。考える。考える。考えるほどに最初の愉快な気持ちはだんだんに目減りした。
森の深みに入るにつれ、無性につらい気持ちになってきた。どうしてだろう。とうとうたまらなくなったわたしはがむしゃらに走った。
夢中に走って、走るのだけれどこのもやもやとしたつらさは一向に解消されない。
転倒した。
いつの間に、夜になっていた。森が暗転する早さといったらなかった。本物の闇。もう目の前で振る自分の手すら見えない。
“松明明く照らしつつ 木の葉敷きて倨居する”
こころぼそく囀るのはわたしだけで、小鳥はとうに自分の居場所へ帰り休んでいるらしかった。私の居場所は? 自問しかけて口端を噛みしめる。小鳥のかわりに空間を支配しているのは梟だった。夜の森の王者だ。
諦めて、今立っている柔らかなその場所へ仰向けに寝転んだ。森はわたしの味方だと分かっていたから、無防備に眠りに落ちた。夢は見なかった。
松葉の香りに包まれて、まるまって、甘えた。
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