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「あなたは二年前、私から大事な怒りを盗みました。すれ違った時、私から財布を抜き取るようにして怒りを抜き取って行ったんです。おかげで私は兄を刺した犯人を目の前にしながら、悲しいくらい冷静で、何も出来ずに見過ごしてしまいました。どうしてくれるんですか?」
凡庸な顔をした男は黙っていた。
反論したりごまかしたりしないということは事実だと認めたということだ。
失われていた怒りが再び胸の内側で着火する音がした。
「あれから私は犯人の顔もよく思い出せないんです。自分の中の後悔にどう折り合いをつけたらいいか分からないんです! お願いです、あの時の怒りを返してください!」
「今の怒りじゃ駄目ですか?」
男は値踏みするように私を見た。
「全然弱くなりました。こんなんじゃ駄目です」
兄は一命を取り留めたものの、ショックで言葉が出なくなってしまった。事件前は溌剌とした明るい兄だったのに、今では引きこもりの生活を送っている。
犯人を見つけて罪を償わせない限り、変わってしまった兄に対して申し訳が立たない。
私がそう説明すると、男は神妙な顔つきでうつむいた。
「すみません。正直戸惑っています。怒りを返せと言われたのは初めてで」
戸惑う男は私に自分の手のひらを見せた。
「あなたからいただいた怒りはもうありませんので、残念ながらお返しすることはできません。さっきのカップルからいただいた怒りも、ほらこの通り、消えてしまいました」
そうだろうと確信していたにも関わらず、彼が本当に怒りを盗んだことが分かって今更ながらに気味が悪くなった。
「どうしてこんなことを……」
「僕はどうやら誰かの怒りを勝手に吸い取る癖がある。癖というか、体質のようなんです。でも今までそれで誰にも迷惑をかけたことはなかった。怒りは溜め込んでおくと体に良くないですし、むしろ僕はいいことをしていると思っています」
男は悪びれた様子もなく、こちらを憐れむように見て言った。
「怒りなんていつまでも抱えずに、手放すべきなんです。あなたもその方が楽になれる」
「人の怒りを勝手に奪っておいて、よくもそんなこと──!」
私は拳を振り上げようとした。
しかし、怒りが頂点に達しようとした時、また目の前の男に取られてしまった。私自身もこれ以上どうしたらいいか分からなくなり、「二度と私の前に現れないでください!」と負け犬のように吐き捨ててその場を去った。
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