第1話 モニカ・ブルシュティン

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第1話 モニカ・ブルシュティン

 早朝、ポーランド共和国の首都ワルシャワの孤児院──。  入り口前に置き去りにされた籠の中で、小さな女の子の赤ちゃんがすやすや眠っていた。  院長のコルチャック先生が一番に起き出して、籠を見つけた。先生は、赤ちゃんをくるんでいたタオルに、紙切れが挟まっているのに気がついた。紙切れにはこう書いてあった。 「この子の名前はモニカ・ブルシュティン。どうぞよろしくお願いします」  施設のスタッフたちの手によって、モニカはすぐに暖かい布団とミルクを与えられた。モニカは一度も泣き出さず、ミルクを飲むとあっという間に眠ってしまった。  スタッフたちは、乳児施設のベッドにモニカをそっと置いた。  コルチャック先生は自室に行って、紙切れを棚に仕舞おうとした。モニカが大きくなったら渡そうと思ったのだ。そこでふと、裏面の文に気がついて、仰天した。 「この子は人魚と人間の混血です」  先生はしばらくそれを見つめてから、紙切れを大事に仕舞い込んだ。可哀想に、母親は精神病にかかって妄想に取り付かれていたのだ。そんな状態では子どもも満足に育てられまい。孤児院に預けることができたのはせめてもの救いだったのかも知れない……。先生は束の間、神に祈りを捧げた。  モニカの成長は非常にゆっくりだった。足腰が弱くてなかなか立ち歩きできなかった。また、三歳になっても「あうあう」と喃語のような言葉しか喋らなかった。その「あうあう」で鼻歌のように歌うのが好きらしかった。歌を聞いた他の赤ちゃんたちは、不思議とぐずるのをやめるのが常だった。  モニカはというと、やはりあまり頻繁には泣かなかった。  五歳になってもモニカの体はとても小さかったけれど、急に流暢に喋れるようになった。無口な性格でありながらも、必要なことは口に出せるようになった。歌はやはり好きで、不思議な歌を歌った。  川の流れは 子守唄  静かに眠る 水底の石  今宵も瞬く 星たちが  なき故郷(ふるさと)と 同じ空に 「そんな歌、どこで聞いてきたの?」  大人が尋ねると、モニカははにかんでもじもじするばかりで何も言わない。 「自分で作ったの?」  するとモニカはこくっと頷いて黙り込んでしまう。でも数十分もすると、別の場所で座り込んで、別の歌を歌うのだった。一人で歌うこともあったし、施設の子どもたちに歌って聞かせることもあった。  モニカは七歳の誕生日のとき、記念として、コルチャック先生に、「みんなには内緒だよ」と古びた紙切れを渡された。おくるみに入っていた、あの紙切れだった。  モニカはあの謎の文面を読むと、グレーの瞳で先生を見上げた。 「混血って何ですか?」 「君のお父さんかお母さん、もしくはもっと昔の御先祖が、人魚だということだよ。本当かどうかは分からないけどね」 「私、これ、大切にします」モニカは言った。「だって、私のことが書いてあるから」  先生は笑って頷いた。孤児である者にとって、出自は気がかりなものだと分かっているのだ。 「先生、私、お礼に歌ってもいいですか」  モニカは言った。 「是非」  モニカは少し笑うと、息を吸い込んだ。  人魚が川にやってきた  綺麗な声で歌った  ある日人間がやってきて  人魚は歌えなくなりました 「ワルシャワの人魚伝説の歌かな」  先生は言った。 「でもちょっと伝説とは違うみたいだ。最後は人魚姫のようだね──歌えなくなって終わりなのかい?」 「そうなんです」  それきり彼女は何も言わなかったので、先生はモニカのくすんだ金髪を撫でた。 「素敵な歌をありがとう」  モニカは嬉しそうに笑った。
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