客席6番 〜マダム 愛生(あい) ④〜

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客席6番 〜マダム 愛生(あい) ④〜

夜が更けると今日もいつも通りお店を開ける。 ここはカフェ"nightist” 今日は、マダムの物語の3夜目だ。 早く続きを聞きたくて、マダムの来店が待ち遠しい。 ガチャっとドアの開く音がした。  時間的にマダムだ。 「いらっしゃい・・・ませ」 入って来たのは、予想通り、マダムだった。 でも、マダムの顔を見て、息を飲んでしまった。 マダムは、赤い目をして来店する事が時々ある。それは、先生の本を整理していたであろう日が多い。 でも、今日はそんな時とは比にならないくらい、真っ赤で、そして腫れていた。 昨日、一昨日の2日間、先生の話をする事がマダムの負担になっていたのだろうか。 それとも、何かあったんだろうか。 目を白黒させ、1人でオロオロしている私を見たマダムは、ふふふと笑い、 「ひどい顔でしょ?今日、手紙が届いたの。なんでしょうね。私が先生の話をしていた事が引き寄せたのか、タイミングが合うというか、人と人との繋がりは不思議な事が起こるものね。」 意味深な事を言った。 私が更に目を白黒させていると、 「手紙の事はまた後でね。」 と言って、一息ついて、 「さあ、どうしましょう。今日も続きを聞いて頂けるかしら?」 目が赤い理由は、泣いた事に間違い無さそうだけど、マダムの表情は明るい。 きっと、辛い悲しい涙ではなかったのだろう。 私は少し胸を撫で下ろし、 「是非!」 と、敢えて明るい笑顔を返した。 今日もミルクティーを持ってマダムの席に行くと、マダムは手紙をそっと撫でていた。 私がミルクティーを置くと、有難うと言って、ゆっくりと一口飲んだ。 「今日は、再会後のお話ね。」 そう言って、ふぅっと息を吐いた。 「先生は2年待って欲しいと言ったから、私はその言葉を信じて待ったわ。それまでの無味乾燥な生活は一転して、ワクワクというか、キラキラというか、色付いた毎日を過ごしながら、私は先生からの連絡を待ったわ。」 うっとりとした表情だった。 「でもね、2年経っても先生からの連絡はなかったの。私、落胆したわ。あぁ、やっぱりダメだったんだ。」 大きなため息を一つつく。 「また無味乾燥な生活に戻るんだと思ったわ。でもね、やっぱり諦めきれず、心のどこかで先生からの連絡を待っている自分がいたの。先生が私に嘘をつくはずがない、約束を破るはずがないって。バカでしょ。」 そう言って、ふふふと笑った。 「私は諦めるように自分に言い聞かせながらも、心のどこかで先生を待っていたの。そして、約束の2年から1年経った時に、先生から連絡が来たの。先生は、私との約束を忘れていなかったの。」 マダムが嬉しそうに笑った。 「先生が"待たせたね"って言ったの。会社だったから、私、必死に泣くのを堪えて、その日の夜に会う約束をしたの。」 マダムの頬が高揚していた。 「夜になるのが待ち遠しくて、その日の記憶はあまりないの。仕事が終わると、着替えるのももどかしいくらいに慌てて会社を出たの。そうしたら、先生がそこにいたの。先生は、ニッコリ笑って、"やぁ"と言って軽く右手を挙げたの。今でも鮮明に思い出せるわ。その時の気持ちを表現できる言葉は、そうね、ないわ。幸せ、嬉しいなんて超越した気持ちだもの。」 うっとりと微笑むマダムは、本当に幸せそうだった。 「私、先生に抱きついたの。今まで叶わなかった想いを全部込めて。先生も、ぎゅっと私を抱きしめてくれたわ。私達は、無言で抱き合い、しばらくして、先生の腕の中で先生を見上げると先生が泣いていたの。"先生、泣いてるの?"って言ったら、"君もね"って、先生が泣き笑いの顔で言ったわ。私達、2人で泣きながら笑ったの。」 マダムは、幸せそうに一息おいて、少し照れたような表情で、 「その後のことは、想像にお任せするわ。」 頬を赤らめた。 マダム、なんて可愛らしいんだろう。マダムは、恋する乙女だった。 「でもね、実はその後も大変だったの。先生と一緒にいられるなら、私はどんなことでも平気だったんだけどね。」 先生の家庭はどうなったんだろう。先生と元教え子の恋愛だからだろうか。マダムが大変だったという要素はたくさんあった。 マダムは、少し疲れたのか、冷めたミルクティーを飲み干し、 「もう一杯頂ける?」 と言った。 ミルクティーで一息ついたマダムは、続きを話し始めた。 「先生と私は、すぐに結婚を考えたの。これだけ長い間待ったのだから、今更、結婚を躊躇する理由なんて、先生にも私にもなかったから。それを考えた時に、まずは私の両親が大変だったわね。それはそうよね。娘が連れてきた恋人が自分たちと変わらない歳なだけでなくて、高校の担任教師だったんだから。もちろん家庭があった事も知っていたから、自分の娘がよそ様の家庭を壊したのかもしれないとも考えたんでしょうね。不倫関係だった時期はないものの、先生の家庭を壊した原因は私だから、それは否定できないけれど。私の両親はとても真面目な人たちで、どうしても私を許す事ができず、先生と結婚したいなら家を出て行くように言われてしまって。不倫の末の略奪婚じゃないんだから、両親からも世間からも許されると思っていたけど、それは甘かったわ。先生も、学校での正式な処分はないものの、周囲の視線は冷ややかで、生徒への影響も考えると、そのまま教師を続ける事はできないと考え始めてたの。」 マダムの表情は、辛く悲しげだった。 「それでも私達の気持ちは揺るがなかったわ。だって、こんなに待ったんだもの。もうこの恋を諦めるなんて選択肢はなかったわ。私は、先生と一緒にいられるならどんな苦労だって厭わないと思っていたけれど、先生は少し違っていたの。自分が起こした行動で私を不幸にしてはいけないという責任を感じていたのね。だから、先生は色々なツテを使って、私達が穏やかに暮らせる環境を必死に探したの。そして、急展開だけど、私達はフランスに渡る事になったの。先生の学生時代の友人がフランスにいて、現地の日本人学校の講師の職を紹介してくれたから。先生は、私がパリが好きで、何度も旅行で訪れていた事を知っていたから、日本にいるよりいいかもしれないと考えたのね。先生から初めて聞いたときはとても驚いたけど、みんなから祝福されないまま、ここに留まる意味を見出せなくて、2人でフランスにいく事を決めたの。」 マダムが同年齢の日本人となんとなく違う雰囲気がある理由がわかった気がした。 話をするマダムの表情は今も硬いままだった。 「フランスでの生活はとても楽しかったわ。周りの目を気にする事なく、自分たちらしく暮らす事ができたから。週末には、先生が私の絵を描き、美術館に行ったり、ショッピングに行ったり、本当に幸せだったわ。でもね、両親の誕生日やお正月になると、勘当されて出てきた実家の事を思い出すの。両親はどうしているだろうとか、日本で過ごしたお正月がどうしようもなく恋しくなったりして。幸せだったけど、完全なものではなかったのね。」 マダムは少し寂しそうに笑った。 「先生はそんな私のこともわかっていて、というか見越していたのね。フランスに渡ったのも、日本にいても、私達も周りの人達も苦しいだけで、時間が必要だと考えていたからだったの。先生は、私には何も言わずに、ずっと両親に手紙を出し続けていたの。そして、フランスに渡って20年が経とうとした時に、先生から日本に帰らないか?と相談されたの。両親とは、その数年前に和解していたから、時々は帰国するようになっていたのだけど、日本に戻る事までは考えていなかったから、聞いた時は戸惑ったわ。でもね、先生は76歳になり、私も50歳を過ぎていたし、先生より年上の両親の事も心配だったから、それもいいかもしれないと考えるようになったの。私はその程度の気持ちだったのだけど、先生の思いはもっと複雑で、帰国後に両親から聞いたのだけど、先生は自分が死んだ後、フランスで1人になる私の事が心配でたまらなかったらしいの。私達には子どもが出来なかったから、先生はそれをものすごく気にしていたの。先生は、子どもを作る努力をしてくれたのだけど、結局、子どもには恵まれなかったの。でもね、私、なんとなく感じてたのよ。先生は心のどこかでホッとしているって。前の奥様と息子さんの事を考えると、自分だけ幸せになる事に負い目があったのかもしれないわね。簡単な気持ちではなかったと思う。先生は亡くなるまでに、何度も何度も、君から母親になる機会を奪って申し訳ないと言っていたわ。きっと、先生も、子どもが出来なかった事でホッとしている自分がいる事をわかっていたからでしょうね。私は…。そうね、先生との子どもは欲しかったわ。でもね、先生と一緒で、どこかで私だけが幸せになってはいけないって、全て欲しいものを手に入れて幸せになる事を恐れていたのかもしれない。私達が一緒にいる事で不幸にした人たちがいたから。子どもが出来なかった事は贖罪なのかもしれないとね。」 マダムは大きく息を吐いた。表情は険しいままだ。フランスでの生活が幸せだったという言葉とは裏腹に、先生に恋していた頃のようなキラキラとした笑顔は無くなっていた。 「でもね、後悔はしていないわ。先生は、初めて本気で好きになった人だし、先生と一緒に暮らした日々は、苦しいこともあったけど、その何倍も幸せで楽しい事がたくさんあったから。」 マダムは目に涙を溜めながら、弱々しく笑った。 「帰国したのは、先生が76歳、私は51歳で、今から、8年ちょっと前のことね。その前から何度も帰国はしていたから、すぐに日本の生活にも慣れたわ。もう私達のことを何かいう人もいないし、両親もいたし、学生時代の友達もいるし、帰国してよかったと思ったわ。両親と旅行に行ったり、20年間出来なかった事をする事もできたしね。ある時、一緒に旅行をしていて気づいたの。両親が小さい子どものことをじっと見てたの。私、両親に"ごめんね。孫を抱かせてあげられなくて"と謝ったの。私、ひとりっ子だから、私が子どもを産まないと両親は孫を抱く事ができかったから。でもね、親はいつまでも親なのよね。母は、"あなたがいてくれれば私達はそれでいいの"と言って、私を抱きしめてくれたの。"あなたの方が辛いのだから、私達のことはいいのよ。”って。私は親不孝な娘だった。私が謝ると、両親はいつも"あなたが幸せならそれでいい"と言ってくれたの。私のできる限りの親孝行をしようと、両親との時間も大切にして、充実した生活だったのだけど、長くは続かなかったわ。帰国して3年が経った頃、父が体調を崩してあっけなく亡くなってしまって、父を追うように母も翌年に亡くなってしまったの。私が帰国した事で安心したのかもしれないわね。」 マダムの瞳から、涙がポロポロと流れ出した。 「その時、先生は、僕は長生き出来るように頑張るからと言っていたのだけど、その2年後に先生まで逝ってしまったの。」 もうマダムは話をする事が出来なかった。 私は、何を言っていいのか、いや、何かを言ってはいけないのか、それすらも分からず、涙が止まらなかった。 静かな時間が流れ、マダムは肩で大きく息を吸い、吐いた。 「ごめんなさいね。先生が逝ってしまった時の苦しさは、今も全く変わらなくて。先生が逝ってしまった時の話はまだ話す事が出来ないから、その後の話から続けるわね。1人になった私は、本当に先生の後を追おうとしていたの。両親も先生もいなくなって、ひとりっ子の私は天涯孤独になってしまったの。もう生きていく意味も気力もなくて、毎日死ぬ事ばかりを考えていたわ。先生の最初の法要を済ませた日に、私、沢山の睡眠薬を飲んだの。とにかく眠りたかったのね。眠っていれば色々を考えなくても済むし、その結果、死んでもいいと思っていたから。でもね、それを止めてくれたのが、愛子と真樹くんと樹くんだった。愛子って、ここのオーナーね。愛子は、私の幼馴染なの。幼稚園からずっと一緒で、高校も一緒だったから、先生の事も知ってるわ。真樹くんも高校の同級生だから、もう随分ながい付き合いになるわね。帰国した時、愛子はもう眠ってしまっていたけれど、このお店をやっている事は聞いていたし、愛子が眠ってしまってからは、真樹くんと樹くんがこのお店を守っていたのも知ってたわ。でね、きっと先生は、自分がいなくなった後の私がどうなるかをわかっていたのだと思うの。だから、歳をとると長く眠れないと言って、夜中に出歩くようになって、結果、ここへ先生と2人で毎日のように来るようになったの。 今にして思えば、それも私を1人にしない為の先生の計算だったんだと思うわ。でもね、先生が逝ってしまってから、私はここに来ることすら忘れてしまっていたの。だけど、睡眠薬を沢山飲んだ日に夢を見たの。愛子がね、泣いてるの。愛生、行かないでって。愛子もひとりっ子だったのよ。あぁそうか。愛子が目覚めた時に私がいなきゃ愛子が寂しがるって思ったの。そして、私は目覚めたの。病院のベッドの上でね。最初に、樹くんの心配そうな顔が目に入ってきたわ。樹くんが、私の家に来て、救急車を呼んでくれて、私は病院で1週間眠り続けていたんだそうよ。樹くんは、寝ていたら愛子が夢に出てきて、今すぐに愛生の家に行ってって言われたらしくて、鍵は先生が逝ってしまう前に樹くんに渡していたみたいで、樹くんが駆けつけてくれたお陰で、私は命拾いしたの。先生は、どこまでも用意がいいというか、私のことがわかっていたというか。だったら、私を一緒に連れて行く方法を考えてくれたらよかったのに。」 マダムは、また涙ぐんだ。鼻をズズッとすすり、続けた。 「目覚めたの私を見た樹くんは、心底ホッとしたようで、腰が抜けたようにドスンと尻餅をついて、よかった〜って言ったの。そして、そのあとすぐに真樹くんがきて、"一色!もうなにしてるんだよ。驚かさないでくれよ。"って怒ったの。私、1人じゃなかったって思ったわ。先生は、1人になった私を愛子と真樹くんと樹くんが助けてくれるってわかってたのね。先生が逝ってしまって3年が経つのに、私はまだまだダメダメで、時々、死にたくなってしまうのだけど、その度に愛子が夢に出てくるの。まだダメよって。そうか、まだダメかとがっかりするのだけど、目覚めた愛子と話したいことが沢山あるから、今は愛子が目覚める日までは生きていようと思ってるわ。死にたくなると、夢に愛子は出てきてくれるんだけど、先生は1度も出てきてくれないの。私がついて行きたくなってしまうからか、先生が連れて行きたくなってしまうからか、いつか私が天寿を全うして、次に先生に会った時に文句を言ってやろうと思ってるわ。」 そう言って微笑んだ。 「有難う。長い話に付き合ってくれて。先生の事を沢山思い出す事ができて、とても楽しかったわ。そうそう。昨日持ってきた絵、気づいた?」 そうだ。昨日、マダムが持って来てくれた絵。 「素敵な絵でしたけど、特に何も…。」 そんな私にマダムが言った。 「先生と私、私が大学生の頃には会ってないのよ。」 「あれ?成人式とか卒業式っぽい絵があったような…。」 「でしよ?その頃の絵は、先生、隠してたのよ。」 「隠してたんですか?」 「恥ずかしかったのかしらね。だって、空想の世界の私だもの。もしかしたら、ストーカーみたいで怖いって思われるとでも思ったのかしら。」 と言って笑った。 「実際、嬉しいんだけど、えっ?って思ったわよね。でもね、先生にこんなに愛されてたんだなって思ったわ。」 しみじみと言った。 「最後に、これは今日の話。」 ふぅっと息を吐いた。 「手紙を貰ったの。さっき、少し話したわよね。その手紙、先生の息子さんからだったの。先生の元奥様が亡くなった事、元奥様がご自身の人生が楽しかった、幸せだったと仰って亡くなった事、そして、許せる事ではないし、受け入れることはできないけど、理解はしようと思うと書いてあったの。」 一息おいて、 「最後に、父を幸せにしてくれて有難うと書かれてあったの。」 マダムは、またポロポロと涙を流した。 「許された訳ではないけれど、心の重荷を少しだけ軽くしてもいいと言われたような気持ちになったの。私、ほっとしたの…。」 そう言って、手紙を大切そうに撫でていた。 マダムの顔は、穏やかだった。 マダムは、まだ若い。 この先の人生は、不幸にした人がいるという罪の意識から解放されて、穏やかに幸せに過ごしてほしいと願う。 それに、私としては恋もして欲しい。先生だって、マダムが幸せなら怒らないと思う。 だって、恋している時の話をするマダムは、とても素敵だったから。 そして、マダムと一緒にオーナーの目覚めを待とう。
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